平徳子
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^ 小督局の父・藤原成範は院近臣だったが治承三年の政変で処罰されず、後白河の幽閉された鳥羽殿への伺候も認められ清盛の信頼が厚かった。範子内親王は徳子の猶子となっている[9]。徳子は他にも後白河の第十一皇子・真禎を猶子とし[10]、後白河の第九皇子・道法法親王や高倉の第三皇女・潔子内親王についても身辺の世話をしていることが確認できる[11]。これらは徳子の養育という形で、平氏が高倉天皇の皇子女や後嗣と成り得る存在を監視下に置いたものと考えられる。
^ 右衛門尉・行高を東宮進物所預に任命[13]、譲位当日の東宮御所選定について指示[14]藤原光長の五位蔵人補任[15]など。もっとも徳子は自らの口出しは越権行為であり、本来は高倉上皇が行うべきものと控え目な態度を示している[14]
^ 匈奴には父子が同じ女性と婚姻する「寡婦相続婚」「父子一妻婚」の風習があったが、漢民族は父子の別を重んじる儒教的見地からこの風習に激しい嫌悪感を抱いていた。九条兼実が「およそ言語の及ぶ所にあらざるものなり」と愕然としたのも、同じ価値観を持っていたためと考えられる。
^ 他にも閑院や最勝光院も高倉上皇から徳子に相続されたとみられている。その背景として建春門院没後に後白河院が自己の皇子(高倉天皇の異母弟)を天皇の養子として譲位を行わせて平家の影響力を弱めようとしたことがあげられ、高倉天皇(後に上皇)もこれに対抗するために自己の所領の集積に努めた。そして自らの死に先立ち、安徳天皇の母でもある徳子にそれらを継承させて自己の皇統の存続を図ったとみられている[21]
^ ただし、佐伯智広は閑院は高倉上皇から徳子に相続された御所で、安徳天皇の閑院遷幸を取り仕切ったのは徳子の中宮職であったとする[24]
^ 徳子の処遇について諮問を受けた九条兼実は、「武士に附けらるる事一切候ふべからず。古来女房の罪科聞かざる事なり。然るべき片山里辺に座せらるべきか」と返答している[28]
^ 吉田の僧坊の主について、『平家物語』は慶恵、『吾妻鏡』4月28日条は実憲とする。
^ 『吉記』同日条によれば出家の戒師は大原の本成房湛ごう(へんが「學」、つくりが「攴」)だが、『平家物語』は長楽寺の阿証坊印西とする。守覚法親王が書いたとされる『左記』には安徳天皇の御直衣を持っている「長楽寺聖人」の記述があり、この所伝が『平家物語』に取り入れられたと考えられる。長楽寺はこの御直衣を幡(旗)にして現在でも伝えている。
^ 『平家物語』の壇ノ浦の場面では「浪の下にも都の候ぞ」となっている。
^ 『竜畜経』という名の経典は現存せず、具体的にどの経典を指すのかは不明。
^ 『平家物語』の徳子と後白河法皇との問答は2500文字以上あるため、本文の会話文はその大意。
^ 与謝野晶子は建礼門院を偲んで次の歌を残した。

ほととぎす 治承寿永のおん国母(こくも) 三十にして経よます寺
春の夜に 小雨そぼふる大原や 花に狐の ぬる寂光院

出典^ 角田文衛著、教育社、1980年
^ 上杉和彦明治大学教授『戦争の日本史 6 源平の争乱』(吉川弘文館 2007年)、関幸彦鶴見大学教授『図説 合戦地図で読む源平争乱』(青春出版社、2004年)など。
^ 奥富敬之早稲田大学講師「歴史群像シリーズ 平清盛」
^ 『山槐記』治承2年6月28日条
^玉葉』『兵範記』同日条
^ 『玉葉』11月28日条
^ 『兵範記』同日条
^ 『玉葉』同日条
^ 『山槐記』治承2年6月17日条
^ 『山槐記』治承2年6月19日条
^ 『山槐記』治承3年4月16日条、4月23日条
^ 『玉葉』4月14日条
^ 『山槐記』2月19日条
^ a b 『山槐記』2月17日条
^ 『山槐記』2月28日、29日条
^ 『玉葉』『山槐記』同日条
^ 『玉葉』12月19日条
^ 『山槐記』12月24日条
^ 『玉葉』正月13日条
^ 『玉葉』正月29日条
^ 佐伯智広「高倉皇統の所領伝領」(初出:『日本史研究』549号(2008年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5))
^ 『吉記』4月10日条
^明月記』12月1日条
^ 佐伯「高倉皇統の所領伝領」
^ 『玉葉』『吉記』8月14日条


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