平岡紀子
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注釈^ 1958年(昭和33年)10月から建設開始し1959年(昭和34年)4月前に完成したこの大田区の家の住所表記は、1965年(昭和40年)11月の住居表示制度の実施で「南馬込四丁目32番8号」に変更されるまでの間、三島由紀夫が知人らに宛てた書簡や、贈呈本に添付した自身の名刺で「馬込東一丁目1333番地」と記載され(エアメールでは、Magome-higashi)[8][9][10]、三島研究者編纂の全集の年譜や複数の評伝でも町名を「馬込東」と記載しているが[11][12][13]、大田区の住居表示を記録した『住居表示旧新・新旧対照表. 6の2(昭和40年11月15日施行)』の300頁によると、南馬込四丁目32番8号は馬込町東一丁目1333番地に当たり、当地の居住者には平岡公威の名(三島由紀夫の本名)が記載されている[14]。なお、川端康成が書いた三島宛の書簡では1962年(昭和37年)以降に「馬込東」と「馬込町東」の両方の表記が見られる[15]
^ ちなみに、徳仁の母・上皇后美智子と、紀子の父・三島は独身時代の1957年(昭和32年)頃、銀座6丁目の小料理屋「井上」の2階で、食事を兼ねた見合いを行ったといわれている[18][19][20]

出典^ a b 有元伸子「平岡家」(事典 2000, pp. 572?575)
^ a b c 「年譜 平成10年」(42巻 2005, pp. 365?366)
^ a b 「年譜 平成2年1月17日」(42巻 2005, p. 356)
^ 齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」(24巻 2002月報)
^ 「昭和34年6月、長女紀子誕生、虎ノ門病院にて」(写真集 2000
^裸体と衣裳――日記」(新潮 1958年4月号-1959年9月号)。30巻 2003, pp. 77?240
^ 「第三章 薔薇の痙攣」(生涯 1998, pp. 163?232)
^ 阿川弘之からGeorge H. Lynchまでの書簡・葉書(38巻 2004, pp. 33?948)
^ 浅野晃から平岡紀子までの書簡・葉書(補巻 2005, pp. 198?235)
^ 犬塚潔「三島由紀夫の名刺」(研究6 2008, pp. 166?171)
^ 「第五章 『鏡子の家』の時代」内(年表 1990, p. 131)
^ 「第三章 薔薇の痙攣」内(生涯 1998, p. 198)
^ 「年譜」(昭和34年5月10日)(42巻 2005, p. 231)
^ 住居表示旧新・新旧対照表 6の2(昭和40年11月15日施行)(国立国会図書館 Online)p.300
^ 川端書簡 2000, pp. 152?171
^ 「わが育児論」(34巻 2003, pp. 84?87)
^ 「昭和40年、自邸にて、家族とともに」(写真集 2000
^ 「第六章 『和漢朗詠集』の一句」(徳岡 1999, pp. 133?156)

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