平岡瑤子
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注釈^ 手紙は社長所蔵の英語版『仮面の告白(Confessions of a Mask)』に挟まっていて、現地アメリカの骨董商が発見した[6][8]。この手紙を鑑定し買い取った前野重雄は、「三島由紀夫さんの『素顔』が見える資料で、里帰りさせたかった」と語り、三島由紀夫文学館館長の松本徹は、「三島は米国滞在で苦しい時期を過ごし、決心して結婚した。苦しさから解放され、新婚の楽しさが伝わってくる。三島のためにも良い発見だ」とコメントしている[6][8]
^ なお、湯浅あつ子は、三島が見合いをしたのは自分が紹介した杉山瑤子だけだと言い張り、正田美智子との見合いを否定しているが[24]、総合的な検証や複数の証言から、三島が正田美智子と見合いをしたのは、ほぼ事実だと見なされている[23]。ちなみに、その年の3月15日、正田美智子が首席で卒業した聖心女子大学卒業式を三島は参観していた[25]
^ ジョン・ネイスンは、瑤子の父親が高名な画家ではあっても杉山家は取り立てて誇るほどの家柄でなく、平岡家がコンプレックスを抱く必要がなかった点で選ばれたと推測しているが[19]、瑤子夫人の死後の2011年(平成22年)に湯浅あつ子が証言したところによれば、杉山家との最初の面会の後、三島は縁談を断っていたのだという(理由は、娘が大学在学中にもかかわらず、自分との縁談を急ぐ杉山元子夫人とその実家に、あまりよくない印象を受けたためとされる)[24]。結局は瑤子の強い意志と要望で、両家の直の話し合いの末に結婚の運びとなったとされ、実は瑤子の方が三島に会って、すぐに気に入っていたのだという[24]
^ 1958年(昭和33年)10月から建設開始し1959年(昭和34年)4月前に完成したこの大田区の家の住所表記は、1965年(昭和40年)11月の住居表示制度の実施で「南馬込四丁目32番8号」に変更されるまでの間、三島由紀夫が知人らに宛てた書簡や、贈呈本に添付した自身の名刺で「馬込東一丁目1333番地」と記載され(エアメールでは、Magome-higashi)[36][37][38]、三島研究者編纂の全集の年譜や複数の評伝でも町名を「馬込東」と記載しているが[39][40][41]、大田区の住居表示を記録した『住居表示旧新・新旧対照表. 6の2(昭和40年11月15日施行)』の300頁によると、南馬込四丁目32番8号は馬込町東一丁目1333番地に当たり、当地の居住者には平岡公威の名(三島由紀夫の本名)が記載されている[42]。なお、川端康成が書いた三島宛の書簡では1962年(昭和37年)以降に「馬込東」と「馬込町東」の両方の表記が見られる[43]
^ 三島は白いタキシードでグラス片手に談笑し、瑤子もイブニングドレスでお客をもてなしていたという[50]
^ ちなみに野坂昭如によると、瑤子は三島の愛する飼猫に嫉妬したり、レストランで三島と食事中、衆人環視の中であたり憚らず、ヒステリーを起したことがあるとしている[55]
^ その春、瑤子は梓と倭文重の住んでいた離れの家を取り壊した。このことがマスコミに取り上げられると、倭文重の高齢から来る脳軟化の兆しであると説明して公表を差し控えるように依頼したとも言われている[76]
^ ちなみに、この時期に紀平悌子は選挙に立候補していたため、三島からもらった書簡公開が選挙活動の一環だと世間から見られたという[11]

出典^ a b c d e f g 有元伸子「平岡家」(事典 2000, pp. 572?575)

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