1957年(昭和32年)の夏にも、村松は妹・英子と軽井沢の喫茶店に入った時に、偶然瑤子を見かけた[11]。若々しい美女が入口の横の方の席に坐っていた。先方にも連れがあって、彼女は妹に会釈してまもなく連れと一緒に席を立った。妹に名まえをきくと、
――杉山瑤子さんよ。 1958年(昭和33年)3月23日、日本女子大学英文科2年生の時、瑤子の良縁を探していた叔母の小松静子夫人(夫は元伯爵の小松晃道)と親しい間柄の湯浅あつ子が、瑤子の写真を友人の三島由紀夫に見せた[10][12][13]。その見合い写真は、秋山庄太郎の港区麻布今井町(現・六本木)のスタジオで秋山の弟子が撮影したものであった[14][15]。瑤子が三島好みの「丸顔で可愛らしい」顔だったためOKを出し、会うこととなった[10][13]。 4月13日、湯浅は瑤子を連れて銀座のドイツ料理店「ケテル」で三島と引き合わせ、その後3人で「浜作」で夕食を取った後、青山のナイトクラブに踊りに行った[10][12][13][16]。三島は瑤子と踊っている時、瑤子が遊びずれしていないことが判り、翌日14日、「なかなかよろしいではないか」と気に入った旨を湯浅に報告した[12][16]。瑤子の感想の方も、「どうにかなってしまいそうでした」と嬉しそうな声であったという[13]。 4月21日にも湯浅同伴で三島と瑤子は再び会い、第一生命ホールで映画『女優志願』の試写会を観て、西新橋田村町の「ジョージス」で夕食後、青山のナイトクラブに行った[12][17]。4月30日には、湯浅と小松夫人が目黒区緑ケ丘(現・緑が丘一丁目)の三島の家を訪問し下話をまとめ[12][16]、5月3日に、平岡家と杉山家の両家での懇談を持った[12]。 5月5日、三島の父・平岡梓は、杉山夫妻と瑤子、小松夫人と湯浅を中華料理店に招待し、正式に瑤子と三島の婚約の運びとなった[10]。この時、三島の母・倭文重は病気入院中で欠席しており、5月1日の手術で癌ではないことが判明していた[12][16][18]。瑤子は大学を2年で中退して、主婦業に専念することとなった[10]。
彼女が七、八年まえのあの学芸会の少女であるとは、こちらはすぐには気がつかなかった。妹の方は二度も名まえをたずねられて、兄貴めはよほど瑤子さんに関心があるのかと思ったそうである。 ? 村松剛「三島由紀夫の世界」[11]
三島との出会い