平尾昌晃
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続けて、作曲家として「霧の摩周湖」「」、じゅん&ネネ「愛するってこわい」[19][20]梓みちよに提供した「渚のセニョリーナ」などがヒット。「霧の摩周湖」、「渚のセニョリーナ」では、第9回日本レコード大賞作曲賞を受賞した。

その後も作曲家として非凡な才能を発揮していたが、1968年12月3日[21]結核を患い健康保険岡谷塩嶺病院への長期間入院による療養を余儀なくされ、翌1969年5月と6月に2度にわたる大手術を経て、肋骨を6本取り除く。1969年11月30日に退院[21]。平尾自身は、この療養期間が作曲家としての活動の原点であることを事あるごとに語っている[22]
1970年代

1970年代に入ると、ソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風の曲を、五木ひろし小柳ルミ子アグネス・チャンらに提供している。作詞家山口洋子とのコンビは、この時代を代表するゴールデン・コンビとして知られている。

1971年、五木に提供した「よこはま・たそがれ」、小柳に提供した「わたしの城下町」がそれぞれ大ヒットする。

1972年、小柳に提供した「瀬戸の花嫁」が第3回日本歌謡大賞を受賞する。

1973年、五木に提供した「夜空」が第15回日本レコード大賞を受賞する。

1974年、平尾昌晃音楽学校(現:平尾昌晃ミュージックスクール、HMS)を創立する[23]。東京本校の他、札幌、所沢、茨城、名古屋、大阪、福岡、鹿児島にも地方校があり、デビューのバックアップもする。同校出身者は狩人畑中葉子川島なお美石野真子松田聖子川崎麻世大沢逸美森口博子芳本美代子笹峰愛倖田來未後藤真希西田あいなど。歌手としては、生徒の一人である畑中葉子とデュオを組み、「カナダからの手紙」「ヨーロッパでさよなら」などのヒットを出した。また、彼が日本でのデビューのきっかけを作ったアグネス・チャンとも、「香港国際空港(CHEK LAP KOK空港)」でデュオを組んだ。

1970年代のNHKの人気番組『レッツゴーヤング』の司会などにも携わる一方、『平尾昌晃の部屋』など、ラジオ番組のパーソナリティも務めた。その他、人気テレビ番組『熱中時代』での「僕の先生はフィーバー」、「やさしさ紙芝居」、『熱中時代-刑事編』の「カリフォルニア・コネクション」の他、ABCテレビ朝日系時代劇の『必殺シリーズ』、アニメ『銀河鉄道999』などの音楽を手がける。
1980年代

また1980年代初頭から宝塚歌劇団の舞台音楽も手がけており、こちらは晩年まで長きにわたって関係が続いた[24]

音楽活動のみならず、『ものまねバトル』(日本テレビ系)の審査員、チャリティゴルフの企画など、幅広く活躍した。俳優としても、『二階の他人』などに出演している。

競走馬オーナーとしては中央競馬で3勝したスーパーミヨチャンなどを所有した[25]。また、ジャパンカップ優勝のローズキングダムの一口馬主でもあった。オートレースのファンとしても有名で、川口オートレース場には年間ボックスシートを持っているほどだった。作曲者としても川口オートのテーマソングとなる『ぶっちぎりの青春』を提供した。
2000年代

2001年モンブラン国際文化賞受賞。

2002年特定非営利活動法人ラブ&ハーモニー基金を設立、音楽を通じた福祉活動を展開する。

2003年紫綬褒章受章。

2004年に三男の平尾勇気歌手デビューを果たす。

2005年、歌手を目指す若い人、生徒のために自主レーベルのHMSレコードを立ち上げて、優秀な生徒をCDデビューさせている。

2006年、大晦日の『第57回NHK紅白歌合戦』では同年3月に逝去した宮川泰の後を受け「蛍の光」の指揮者に就任し、2016年第67回まで11年間務めた。ただし、宮川やその前任の藤山一郎、前田?などと比較するべくもなく本格的に勉強した指揮法ではなく、いわば名誉職的な役割であることを本人も認めている。
晩年・闘病・死去

肺結核で片肺を切除して以来、肺疾患が慢性化。たびたび体調不調に悩まされた。

2014年末には原発性肺高血圧症に起因する肺炎で危篤状態となったが、この時は奇跡的に持ち直している[26]

2015年に肺がんであることが判明。体力面を考慮して手術を回避。以降は呼吸補助器を携行しながら、公の場にも積極的に顔を出していた。その後2017年5月「息苦しい」と訴え約1か月にわたって入院。一時は回復したものの、同年7月13日に「蒸し暑く体調が悪い」と訴え、病院で検査の結果「肺炎の疑い」との診断で入院。だがこの時も食欲は旺盛で、病室でテレビを楽しんでいたという。

しかし7月21日深夜に容体が急変。病院にかけつけた夫人や数人の親族に看取られ、同日23時40分、肺炎のため東京都内の病院で急逝した[1]。79歳(享年81)だった。訃報後の7月23日、2016年に再々婚していたことが明らかとなった[27]。平尾の葬儀は親族らによる密葬の形で7月30日に執り行われたため、10月30日に東京・青山葬儀所にて渡邊美佐渡辺プロダクショングループ代表)を葬儀委員長とし、故人と縁のあった布施明、原辰徳青木功らを発起人とし『故 平尾昌晃 葬儀・告別式』と題して公のお別れの会が行われ、原が弔辞を読み、布施と五木ひろしが「霧の摩周湖」と「よこはま・たそがれ」を霊前に捧げるべく熱唱し、葬儀に参列した歌手らにより小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」を合唱するなどして故人を偲んだ[28]
没後

没後に第59回日本レコード大賞特別功労賞が贈られた[29]

没後三回忌を迎えた2019年7月、平尾の遺骨が谷中霊園に在る平尾家先祖代々の墓所に納められた[30]
レタス巻き詳細は「レタス巻き」を参照

宮崎県の名物料理にのり巻きの一種レタス巻きがあるが、この誕生には平尾と常連として訪れていた宮崎市の一平寿しの店主との友情が誕生の切っ掛けになっている。

レタス巻きの誕生1966年(昭和41年)で、当時平尾は野菜嫌いで医者から「野菜を食べなさい」と言われていた。それを聞いた常連だった一平寿しの店主が具材にレタスを用いたのり巻きを考案。尚、具材はレタス以外に海老を使う。また、マヨネーズを用いた。のり巻きにマヨネーズを使うのは当時画期的だった。その後一平寿しはレタス巻き発祥の寿司屋となる。
作曲家としての提供曲


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