平将門
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ただし延喜15年(915年)に有史上日本最大の噴火とされる十和田湖の噴火が起こっており、東北一帯を火山灰が覆い京都でもまた扶桑略記に「昼間なのに太陽が月のようであり皆不思議がった」と記されており、降灰の影響で東国でも大規模な不作が発生した可能性も存在する[10]。そうした背景から反権力闘争を起こした将門は東国の民衆から支持を得ていたという説がある[11]。これらから必然的に将門の評価は東西で相反するものになる。

近世になると東国政権という意味から、初めて坂東を横領した将門に関心が寄せられた。神田明神が江戸総鎮守となり、将門は歌舞伎や浮世絵の題材として取り上げられた。将門伝説は文芸化と共に民衆の支持を受けたといえる。その多くが将門を誇張し怨霊として描いており、滝夜叉姫の伝説などが生まれた[12]。将門を日本三大怨霊の一つとするのもこの頃からと考えられる。

明治期には将門は天皇に逆らった賊とされ、政府の命により神田明神などの神社の祭神から外されたり史蹟が破壊されたりした。その結果多くの史料が失われたが、一方で民衆の信仰は厚く、排斥を徹底させることはできなかった[13]。また、これらの排斥運動から将門塚を保護するため、将門の怨霊譚が喧伝されたとされる[14]

戦後、天皇制に関する研究が解禁され国家の発展段階が理論的に議論されると、将門の乱を中世封建社会への前段階とみなす説が現れるが、のちにこの説は勢いを失う[15]。一方で社会には大河ドラマ(風と雲と虹と(1976年))で取り上げられた事で好意をもって広く受け入れられ、『帝都物語(1987年)』により将門=怨霊・祟り神のイメージが定着した。従前の将門研究は文献史料を中心とし歴史学と日本文学史が大きな潮流であったが、史料の少なさからこれらには限界が見られ、今後は考古学や在地社会研究との協業作業が期待される[16]
伝説

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将門伝説の研究者である郷土史家村上春樹は将門伝説を以下のように分類している[17]
冥界伝説(地獄に堕ちた将門の伝説「今昔物語集」・「僧妙達蘇生注記」等)

調伏伝説

祭祀伝説(将門を祀った神社)

王城伝説(将門が建設した都の伝説)

首の伝説

鉄身伝説(将門は鉄身であるが、こめかみだけが肉身であると言う伝説(『俵藤太物語』)[18]

七人将門の伝説(将門の影武者の伝説、将門と行動を共にする7人のうち、影武者の6人には影がないというもの(『俵藤太物語』)[18]や、こめかみだけが肉身であることを女房の1人である小宰相が漏らしたというもの[18]

東西呼応の伝説

将門一族の伝説

追討者の伝説

調伏伝説

千葉県成田市成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれた朱雀天皇の密勅により寛朝僧正が、の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、天慶3年(940年)海路にて上総国尾垂浜に上陸、平将門を調伏するため下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行ったのを、開山起源に持つ。

このため、将門とその家来の子孫は、1070年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。また、生い立ちにもある千葉県佐倉市将門に古くから住む人々も参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた茨城県坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。築土神社神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多い。例年NHK大河ドラマの出演者は成田山新勝寺の節分豆まきに参加するが、将門が主人公であった1976年昭和51年)大河ドラマの『風と雲と虹と』の出演者も成田山新勝寺の豆まきへの参加を辞退した。

尚、これらはあくまで民間伝承であり、神田明神側が出版した本では両方を参拝すると祟りが起こるということはないと明確に否定している。

現在の千葉県市川市大野地区にも、将門公伝説が多く有り縁の郷とされ、現在の市川市立第五中学校の敷地は城址と言い伝えられ、校舎の裏に将門にまつわるとされるも祀られている。校庭の向かいの高台に建つ「天満天神社」も、将門が勧請したという伝承を持つ。また旧くからの地元住民は、板橋の名字が多く将門様の家臣と云う説が有り、地元の人々は成田山新勝寺には行かない・参拝をすると将門様の祟りが起こる、裏切った桔梗姫[注釈 2]にちなんで桔梗を植えない、といった言い伝えを今でも聞くことができる。


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