安元3年(1177年)に発生した安元の大火(太郎焼亡)は、朝堂院(大極殿を含む)が焼失するなど、大内裏に壊滅的被害を与えた[19](内裏は焼失を免れた)。大極殿再建が間に合わなかったために、安徳天皇は内裏の紫宸殿で即位式を行ったが、安徳天皇が平家とともに没したために内裏での即位は「凶例」と見なされ、後鳥羽天皇は太政官庁で即位した(後三条天皇が、焼失した大極殿の代わりに太政官庁で即位式を行った前例があった)[20]。以後室町期まで、中世の天皇は太政官庁で即位することが定例となる[21]。
治承・寿永の乱を経て朝廷は明白な財政難に陥った。安元の大火で焼失した大内裏の再建は遅々として進まず、文治5年(1189年)にようやく再建が始まった[22]。承久元年(1219年)に内裏を含めた大内裏が焼失。その再建途上の安貞元年(1227年)に火災によって全焼し、これをもって大内裏の再建は放棄された[23]。 平安後期の大内裏は、周囲に巡らせた大垣が維持されて(正門たる朱雀門周辺では)威容を保った一方、大垣の内側では内裏などの一部施設を除いて空閑地であったことが考古学的に確認されている[注釈 6]。大内裏の廃墟になった部分は内野(うちの)と呼ばれるようになった[24]。平安時代中期成立の『今昔物語集』 巻第二十七第三十三「西京の人、応天門の上の光る物を見る語」には、西京(右京)に住む者が深夜に「内野通」を通り、応天門と会昌門の間[注釈 7]で怪しい光を目撃した話であるが、平安時代中期にはすでに大内裏が夜間通行可能な荒地と化し、そこに「内野通」という道路が作られていたことを物語る[25]。「内野通」は、当時の市街地であった左京北部と西の嵯峨方面とを結ぶ道のひとつであった[26]。 内野は鎌倉時代には武士たちの馬場として利用された[27]。各地から上京した武士が京中の秩序を乱すことを懸念した鎌倉幕府が天福元年(1233年)に出した禁制の中には、内野を馬場として馬術や騎射術の訓練を行うことを禁じるものがある[28]。元弘3年(1333年)に足利尊氏が六波羅探題を攻めた際、六波羅の軍勢が内野に布陣して迎え撃ったのを皮切りとして、明徳2年(1391年)の明徳の乱における内野合戦など、南北朝期から戦国期にはしばしば戦場として利用された[29]。 室町時代には、内野の北に位置する北野社が内野や朱雀大路を占拠して農地を開発し、室町幕府に社領として認めさせた。その一方で、天皇の即位式の会場となる太政官庁、各種神道儀式が行われてきた神祇官、各種仏教儀式が行われてきた真言院の3つの施設は南東にある神泉苑と共に荒廃しながらも内野の中に存続していたが、応仁の乱でこれらの施設は焼失し、再建することが出来なかった。このため、後柏原天皇の即位式は内裏を大内裏の空間に見立てて実施された[30]。 天正15年(1587年)、豊臣秀吉は内野に聚楽第を建設したが、その後豊臣秀次失脚の余波で破却された。近世には聚楽村(聚楽廻り)という農村となって近代を迎え、現代では京都市街地の一部(中京区の「聚楽廻」を冠する町など)となっている。 幕末まで天皇が住んだ京都御所は、1331年に光厳天皇が里内裏だった土御門東洞院殿を皇居として定めたものである。現存の建物は1855年に建造された建物と太平洋戦争後に復元された建物が混在している。 1895年には平安神宮が建立され、内部に大極殿、応天門など大内裏朝堂院の施設が縮尺復元された。
内野
のちの施設との関係
応天門(平安神宮)
大極殿(平安神宮)
皇城大内裏地図。寛延3年(1750年)。森幸安書写。
文化財
重要文化財(国指定)
平安宮豊楽殿跡出土品(考古資料) - 明細は以下。京都市所有、京都市埋蔵文化財調査センター保管。2005年(平成17年)6月9日指定[31]。
緑釉・三彩瓦 422点
瓦?類 237点
白色土器 3点
金属製品 3点
ガラス玉 1点
基壇石材 8点
国の史跡
平安宮跡1979年(昭和54年)12月22日、史跡「平安宮内裏内郭回廊跡」の指定。1990年(平成2年)2月22日、史跡「平安宮豊楽殿跡」の指定。2008年(平成20年)7月28日、史跡「平安宮内裏内郭回廊跡」と「平安宮豊楽殿跡」を統合し、清暑堂跡の一部および豊楽殿・清暑堂間の廊跡を追加指定して、「平安宮跡 内裏跡・豊楽院跡」に名称変更。2017年(平成29年)2月9日、朝堂院大極殿回廊跡の一部(内野公園)・豊楽院跡の一部を追加指定して、「平安宮跡 内裏跡・朝堂院跡・豊楽院跡」に名称変更[32]。2021年(令和3年)3月26日、史跡範囲の追加指定[33]。