平安京
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それは、平安京が四神相応の地として造られたことが平城京とは異なり不明である上に[注釈 2]、四神を山川道沢とするのは宅地の風水に見られる考え方で、本来都市の風水でもって占地すべき都の四神とは別のものであることなどを理由とするものである。(議論については、「四神相応#平安京」の項参照。)

平安京の範囲は、現代の京都市街より小さく、北限の一条大路は現在の今出川通丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅南方、東寺の南側を通る九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路の推定地はJR嵯峨野線花園駅阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線である。

京内は東西南北に走る大路・小路によって40(約120メートル)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていた(『条坊制』。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。これら街区は、平城京では街路の中心線を基準としていたため、街路の幅の違いによって宅地面積の広狭差が生まれたが、平安京では街路の幅を除いて形成されたため、場所による宅地の広狭が生まれることはなかった。

道幅は小路でも4丈(約12メートル)、大路では8丈(約24メートル)以上あった。朱雀大路に至っては28丈(約84メートル)もの幅であったが、一方で東京極・西京極大路は大路であっても造営当初から10メートル前後と小路より狭い幅であった[5]。また、堀川小路と西堀川小路では中央に川(堀川、西堀川[注釈 3])が流れていた[6]平安宮(大内裏)付近。朝堂院(八省院)や豊楽院内裏などの宮殿や各官衙が並ぶ
宮城の平安宮

平安京の北部中央には、天皇が身を置き、まつりごとが行なわれる施設群となる宮城(大内裏)の平安宮が建造された。大内裏には天皇の御所として内裏、即位礼など国家行事を挙行する八省院(「朝堂院」、朝堂院の正殿が「大極殿」)、大規模な饗宴が行われた豊楽院、神事を行う中和院や仏事に関わる真言院、その他二官八省の政庁、衛府などが並び立った。

なおそれらは、平安京の衰微とともに、太政官庁など大内霊場(おおうちれいじょう)と呼ばれた4つの建物を残して荒廃し、後にこれらも倒壊して遂に当時の大内裏を偲ばせるものはすべて無くなってしまった。ただし、新たな内裏である京都御所が建設されるとこれを平安宮と称するなど、その名が完全に忘れ去られることはなかった。
歴史

平安京は、延暦13年10月22日西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であったとされ、明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失っている[7]

その始めは桓武天皇の長岡京遷都まで遡る。桓武天皇は延暦3年(784年)に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれからわずか9年後の延暦12年(793年)1月、和気清麻呂の建議[注釈 4]もあり、桓武天皇は再遷都を宣言する(理由は長岡京を参照)。場所は、長岡京の北東10 km、2つの川に挟まれた山背国北部の葛野郡および愛宕郡の地であった。事前に桓武天皇は現在の京都市東山区にある将軍塚から見渡し、都に相応しいか否か確かめたと云われている。『日本紀略』には「葛野の地はや川が麗しく四方のが集まるのに交通や水運の便が良いところだ」という桓武天皇の勅語が残っている。大極殿遺阯碑
千本丸太町北西)

平安京の造営はまず宮城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、皇居と官庁街を含む大内裏が設けられて、その中央には大極殿が作られた。その後方の東側には天皇の住まいである内裏が設けられた。

都の東西を流れる鴨川や桂川沿いには、淀津や大井津などの港を整備、これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込んだ。運ばれた物資は都の中にある大きな2つの市(東市・西市)に送り、人々の生活を支えた。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにした。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ「堀川」(現在の堀川と西堀川)を始めとする河川をいくつも整備し、水運の便に供するとともに生活廃水路とした。そして長岡京で認めなかったように、ここでも官寺である東寺西寺を除き、新たな仏教寺院の建立を認めなかった(この他平安遷都以前からの寺院として京域内には六角堂があったとされるが、平安遷都後の創建説もある。また、広隆寺はこの時に太秦に移転されたとされ、京域外の北野上白梅町からは移転以前の同寺跡とみられる「北野廃寺跡」が見つかっている)。なお、建都に当ってはそれまで上賀茂付近から真南に流れていた賀茂川(鴨川の出町以北の通称)を現在の南東流に、また出町付近から南西方向に左京域を斜行していた高野川を現在の南流に変え鴨川としたとの説が塚本常雄によって唱えられ多くの歴史学者に支持された[9](「鴨川つけかえ説」)。これに対して後に横山卓雄[10]によって否定説が提出され、歴史学者も一転してこの説に従うようになり、現在は「鴨川・賀茂川つけかえはなかった」とするのが有力となっている。ところが、最近になって横山説に疑問を呈する研究者が現れ、塚本の鴨川つけかえ説に対する再評価の動きが活発になりつつある[11][12][13]


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