平安京
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[注釈 5]平安京羅城門模型
JR京都駅

980年(天元3年)には朱雀大路の南端にある羅城門(俗に「羅生門」という)が倒壊し、以後再建されることはなかった。また朱雀大路を始めとして広かった大路小路も次第に宅地に侵食され狭められた。

貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ、藤原氏のような上流貴族の宅地が左京北部へ集中する一方、貧しい人々は京内南東部に密集して住み、さらには平安京の東限を越えて鴨川の川べりに住み始めた。また、鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて、平安京の本来の範囲より東(左京)に偏った市街地が形成されていった。

政庁を平安京外に置いた院政の出現は、平安京の都市構造の変化をもたらし、また天皇中心の都という形態を損なうことで、結果として平安京という定められた都市規範を崩壊させる大きな引き金となった[15]

平安時代の末期に至って京内で戦が頻発し、荒廃が進行した。政情不安もあって治承4年(1180年)、平清盛安徳天皇を奉じて福原に遷都(福原京)したが、公家たちの反対に遭い、わずか半年で京都に還都した。

平安末期から「平安京」に代わる言葉として「京都」という語が用いられ始め、鎌倉期初頭にかけてその使用の頻度が増す[15]。また、平安京を擬えた「洛陽」から採られた、中世近世の京都市中を示す「洛中」という言葉も、鎌倉時代から使われ始める。

鎌倉幕府により京都を冠した最初の役職となる「京都守護」(六波羅探題の設置により消滅)が設置される。鎌倉が武家政権の本拠となる一方、京都は貴族や寺社権門の中心となった[16]。天皇の住まいである内裏は度重なる災害により転々とし、室町時代に鴨川寄りの里内裏「土御門東洞院殿」が修造を経て正式な内裏となり、以降はこの場所で築造が繰り返され、現在の「京都御所」の原形となった[17]

室町時代から戦国時代にかけての時期は、応仁の乱にて市街地の過半を焼失し、衰退した。その後、京都の市街地は、上京と下京に分かれて小規模なものとなっていた。これが再度一体の市街として復興に向かうのは安土桃山時代であり、織田信長の上洛後のことである。豊臣秀吉大内裏の跡地である内野に政庁である聚楽第を設け、また京を取り囲む延長20 km余りの惣構である「御土居」を建設した。秀吉は、関白位を甥の秀次に譲ると伏見指月に隠居した。間もなく秀次が失脚して聚楽第が破却され秀吉が伏見城を建設すると、政治の中心は京都から離れて完全に伏見に移ることとなった。

そして関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康も伏見城に入城し、伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける。家康は洛中に二条城を建設したが、これは政庁としての城ではなくもっぱら儀礼的な役割を担うものであったから、このことによって京都が政都に復することはなく、以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行っている。江戸時代には、国政の中心地は江戸、商業の中心地は大坂に移ったものの、京都には江戸幕府の機関である京都所司代が置かれて朝廷との交渉や京都市政を担った。各藩も藩邸を置いて対朝廷および各藩間の外交を行ったため、京都は独特の地位を有したが、幕府はこのことを好まず、例えば西国大名が参勤交代の際、京都に入ることを禁じた。幕末には京での政情不安に鑑み京都守護職を新たに置き、一層支配を強めようとした。

明治維新の際には、明治天皇東京行幸で留守の都となり、留守官が置かれた(明治4年廃止)。江戸東京と改名する詔勅は下されたものの、京都に残る公家らの反発が大きかったため、「遷都」という言葉は避けられた(→東京奠都)。以後も天皇の京都行幸はたびたび行われ、その際には、勅旨で保存された京都御所または仙洞御所京都大宮御所)に宿泊することが慣例となった。なお、天皇の玉座である高御座も、京都御所の紫宸殿に据え置かれている。
名称

平安京はふつう音読みで「へいあんきょう」と読むが、ときに「たいらのみやこ」と訓読みした。古来、都の名はその地名を冠することが一般的であり、本来ならば葛野京[注釈 6]となるはずであったが、藤原の都を「新益京(あらますのみやこ)」と称したように、ここでも「平安京」と命名された。唐の都「長安」に倣っての命名であることは容易に理解できるが、長岡京での騒動が原因のひとつとして、再び遷都されたため、新京では悪いことが起こらず、「平らかで安らかな都」、「平安」(訓読みは「たいら」)であって欲しいという願いも込められたと考えられている。また平安時代の漢詩文には、文学上の雅称として「洛陽」「長安」と呼ぶ例が見られる。この「洛陽」から後に「洛中」「入洛」「上洛」などの言葉が生まれる。
平安京全体図

注意:図に描かれているもの以外にも、複数の町にまたがる邸宅などにより小路が途切れていることがある。
平安遷都記念事業
1100年記念事業


平安神宮の建設(1895年(明治28年))

時代祭の開催(1895年(明治28年))

第4回内国勧業博覧会の開催(1895年(明治28年))

1200年記念事業


京都駅の改修(1997年(平成9年))

京都市営地下鉄東西線二条駅?醍醐駅間の開業(1997年(平成9年))

京都国際映画祭の開催(1997年(平成9年))


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