平城天皇
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^ 薬子の変を嵯峨天皇と太政官による権力掌握のための行動とみる春名宏昭は、『日本後紀』大同元年7月甲辰条を根拠として桓武天皇の崩御後に都を何処に置くかは平城天皇(上皇)に委ねられており、平城京への遷都の詔はそれに基づく正当な決定で、事前に嵯峨天皇や太政官の首脳に相談しなかった落ち度を除いては何ら問題は無かったとしている[3]。一方、西本昌弘は延暦年間末期より流行し、大同2年から3年頃に大きな被害を与えた長期にわたる疫病が桓武天皇末期の徳政相論の一因であると共に平城上皇に平安京の放棄を決断させた要因であるとしている[4]
^ 高岳親王が一連の事件に関与した証拠は存在せず、嵯峨天皇側も藤原仲成・薬子兄妹を首謀者として平城上皇の責任を問わなかったために、廃太子を正当化する根拠が見出せず、新しい皇太子を立てる詔だけが出され、廃太子に関する公式文書は出されなかった[5]
^ 『日本後紀』弘仁2年七月乙巳条・同年9月丁未条から、薬子の変後も平城京の平城上皇の元には参議や近衛少将級以上の武官が近侍していたことが分かる。これは、平城上皇の監視の意味合いがあったと思われるが、同時に天皇と同格とされた太上天皇の身分がそのまま保持されていたためにその品位を維持する意味合いも含まれていたと推測される。ただし、『日本後紀』の両記事は平城京に駐在する官人達の怠慢を責める内容で、彼らのやる気のなさ(裏を返せば、平城上皇に不穏な動きがないこと)をうかがわせる[6]
^ 後に嵯峨天皇が譲位しようとした時に、藤原冬嗣が譲位後の天皇に平城上皇と同じ待遇を与えれば、費用が嵩んで財政が危機に瀕するとして譲位に反対する意見を述べていることなどが、その裏付けとされている。
^ ただし、平城天皇の伝記を執筆した春名宏昭は、流用の可能性も排除しない記述をしている[7]

出典^ 春名、2009年、P209-210.
^ 春名、2009年、P74.
^ 春名、2009年、P210-211.
^ 西本昌弘「平安遷都と疫病」『平安前期の政変と皇位継承』(吉川弘文館、2022年), pp. 161-172:初出:『日本歴史』870号(2020年)
^ 春名、2009年、P217.
^ 春名、2009年、P224-229.
^ 春名、2009年、P242-243.

参考文献

遠藤慶太『平安勅撰史書研究』(皇學館大学出版部、2006年)
ISBN 4-87644-131-6

春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館〈人物叢書〉、2009年) ISBN 978-4-642-05249-8

倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(KADOKAWA)〈角川ソフィア文庫〉、2023年)ISBN 978-4044007911











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