平城天皇
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しかし病弱だった上に父との関係も微妙であり、『日本後紀』によれば、延暦12年(793年)に春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂されたことや、延暦24年(805年)に一時重態であった天皇が一時的に回復したために皇太子に対して参内を命じたのにもかかわらず参内せず、藤原緒嗣に催促されて漸く参内したことなどが記されている。また皇太子時代より妃の母で夫のある藤原薬子を寵愛して醜聞を招き、父より薬子の追放を命じられた上に薬子の夫の藤原縄主春宮大夫につけられている[注釈 1]。こうした経緯が即位後の平城天皇による桓武天皇の政策の見直しへと反映されたといわれている。

延暦25年(806年)3月17日に父帝が崩御すると同日践祚。改元して大同元年5月18日即位。これ以降即位に先立って践祚を行ないその後に即位式を行うことが制度化したと考えられている。薬子を尚侍として手元に戻す一方、薬子の夫である藤原縄主を従三位に昇進させ大宰帥として九州に赴任させた。

即位当初は政治に意欲的に取り組み、官司の統廃合や年中行事の停止、中・下級官人の待遇改善など政治・経済の立て直しを行い、民力休養に努めた。一方で、薬子とその兄の藤原仲成が宮中で台頭し、兄妹が藤原種継の子でもあったため、『続日本紀』から削除した種継の暗殺事件の記述を復活させた[注釈 2]

大同4年(809年)4月1日、病気のため在位僅か3年で皇太弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、嵯峨天皇は平城天皇の子の高岳親王を皇太子に立てた。同年12月、平城上皇は旧都である平城京に移り住んだ。

譲位にも反対していた仲成・薬子兄妹の強い要請を容れ、弘仁元年(810年)9月6日、平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに平城京への遷都の詔を出し政権の掌握を図った[注釈 3]。しかし嵯峨天皇側に機先を制され、10日には嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪。平城上皇側はこれに応じて翌11日に挙兵し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて断念、翌日平城京に戻った。平城上皇は直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。高岳親王は皇太子を廃され[注釈 4]、大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた(薬子の変)。

その後も平城上皇は平城京に滞在していたが、「太上天皇」の称号はそのままとされ、嵯峨天皇朝覲行幸も受けている[注釈 5]。また大宰権帥に遷された阿保親王・廃太子高岳親王の2人の皇子にも四品親王の身位を許されるなど、相応の待遇は保障されていたことが示唆されている[注釈 6]
系譜

平城天皇の系譜

                 

 16.
第38代 天智天皇
 
     

 8. 施基親王 
 
        

 17. 道伊羅都売
 
     

 4. 第49代 光仁天皇 
 
           

 18. 紀諸人
 
     

 9. 紀橡姫 
 
        

 19. 道氏
 
     

 2. 第50代 桓武天皇 
 
              





 10. 和乙継 
 
        





 5. 高野新笠 
 
           





 11. 土師真妹 
 
        





 1. 第51代 平城天皇 
 
                 

 24. 藤原不比等
 
     

 12. 藤原宇合 
 
        

 25. 蘇我娼子?


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