平城京
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薬子の変以後平城京跡地は往時の姿を維持することは出来ず、9世紀末に宇多上皇の南都逍遥の際には旧京域はすでに農村と化していたとされるが[2][3]大和国は江戸時代まで存続している。
名称

平城を「へいじょう」と読むか、「へいぜい」と読むかについては議論がある。

戦後の学校の教科書において、平城京には「へいじょうきょう」と振り仮名が振られていた[4]。その後、少なくとも1980年代には「へいじょうきょう」とともに「へいぜいきょう」の併記が、一部の出版社に見られるようになる[4]。これは平城天皇が「へいぜい」と読むことや、漢字音で「平」が漢音の“へい”と呉音の“ひょう”、「城」が漢音の“せい”と呉音の“じょう”があり、この音を漢音に統一すると“へいぜい”になることによるものと見られている[4]。ただし「京」を“きょう”と読むのは呉音である[4]

研究者を中心に「へいぜい」の読みが見受けられ[注釈 2][4]、『国史大辞典』の見出しも「へいぜいきょう」であるが[6]、一般には「へいじょう」が普及しており、奈良県の進める平城遷都1300年記念事業も「へいじょう」と発音されている。

このように、平城京は現代においては音読みで「へいじょうきょう」または「へいぜいきょう」と読むが、かつては奈良京(寧楽京、ならのみやこ)と呼ばれた。762年正倉院文書の記述に加え、平城京への遷都当時の造成土から「奈良京」と書かれた木簡が発掘されている[7]
都市計画
都市計画の概要平城京 条坊図。

平城京は南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京左京に分かれ、さらに左京の傾斜地に外京が設けられている[8]

東西軸には一条から九条大路(十条については後述)、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された条坊制の都市計画である。各大通りの間隔は約532メートル、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を、東西・南北に3つの道で区切って町とした。京域は東西約4.3キロメートル(外京を含めて6.3キロメートル)、南北約4.7キロメートル(北辺坊を除く)に及ぶ。

平城京の市街区域は、大和盆地中央部を南北に縦断する大和の古道下ツ道中ツ道を基準としている。下ツ道が朱雀大路に当たり、中ツ道が左京の東を限る東四坊大路(ただし少しずれる)に当たる。二条大路から五条大路にかけては、三坊分の条坊区画が東四坊大路より東に張り出しており、これを外京と呼ぶ。また、右京の北辺は二町分が北に張り出しており、これを北辺坊と称する。

市街地の宅地は、位階によって大きさが決められ、貴族が占める12町の物を筆頭として、2町・1町・1/2町・1/4町・1/8町・1/16町・1/32町などの宅地が与えられた。平城宮の東側の一坊大路と二坊大路の間には、8町の宅地を占有した藤原不比等、4町を占有した長屋王、藤原仲麻呂の邸が集まっていた[9]。土地は公有制であるため、原則的には天皇から与えられた物であった。

唐の都の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説である。しかし、先行する藤原京の場合大内裏に当たる部分が中心に位置しており、北端に置いたのは北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展形ではないかという見方もある。しかし、中国の辺境の異民族の侵略を重く見た軍事的色彩の濃いものでなく、極めて政治的な都市であった。
平城京の建築物大極殿(再建)

平城宮内裏)は朱雀大路の北端に位置し、そこに朱雀門が設置された。平城宮は平城京造営当初から同じ位置に存在した。その中心建物で、朱雀門の北にあった大極殿740年の恭仁京遷都の際に取り壊され、745年の平城京遷都後に旧位置の東側(壬生門の北)に再建された。朱雀大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城(都城の周囲に造られた城壁[10])があった。ただし、実際には羅城は羅城門に接続する極一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。

寺院建築は非常に多い。京内寺院の主要なものは、大安寺薬師寺興福寺元興寺(以上を四大寺と称した)で、これらは藤原京から遷都に際して移転されたものである。東大寺は東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって天平勝宝4年(752年)に創建、西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年(765年)に創建された。これらに法隆寺を加えて七大寺(南都七大寺)と称する。この他、海龍王寺法華寺唐招提寺菅原寺喜光寺)、新薬師寺紀寺(子院が残る)、西隆寺(廃寺)などがあった。

2006年3月10日大和郡山市教育委員会らが、平城京が十条大路まで造られていたのは確実であると発表した。下三橋遺跡で発見された道路の遺構に加え、羅城(城壁)跡の一部が発見されたことに依る。この羅城は中国の都城の様な土壁ではなく、南面だけは高い築地塀があったが他は簡単な瓦葺きの板塀ではないかと推定されている。羅城から十条大路推定域までが、新たに平城京南方遺跡として周知の遺跡に指定されている。
発掘・調査.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}


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