平和主義
[Wikipedia|▼Menu]
しかし、ナショナリズムの高揚と帝国主義政策をバックとした第一次世界大戦が勃発すると平和主義者はより具体的な計画を必要とするようになった。「ヒーロー#反資本主義との関連」も参照

近代では商人(ブルジョア)は平和に、英雄(ヒーロー)は戦いに結び付けられて対立的に表現されてきた[16]マックス・ヴェーバーゲオルク・ジンメルヴェルナー・ゾンバルトなどの社会学者らは、戦争を精神的・宗教的に高く評価し、民営的・民主的なブルジョア社会(市民社会・資本主義社会)を非難した[16]。例えばゾンバルトは、ブルジョア社会は国家の「破滅への道」であり、戦争は古き「英雄精神」を開花させ国家を救う、と述べた[17]

ドイツオーストリアハンガリーなどでは、戦争を理由に知識人自由主義を捨て、左翼右翼原理主義に走るようになり、政治的二極化が起きた[18]。このような人々は、資本主義(近代世界システム)を「改革」しようとはせず「超克」しようとした、とされている[18]。「近代の超克」も参照

十四か条の平和原則』(1918年)を発表したアメリカ合衆国の大統領ウッドロウ・ウィルソンによって主導された国際連盟の発足は、カント的な平和主義の構想を具体化したものであった。この取組みは第二次世界大戦によって一時的に失敗するが、戦後に改めて創設された国際連合は普遍的な国際機構として世界の平和を維持する役割が期待された。
現代の平和主義[ソースを編集]ラッセル

戦後に発生した核保有国であるアメリカ合衆国とソビエトの冷戦は従来の平和主義が目指していた平和の実現にとって修正を必要とするものであった。イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは『変革する世界のための新しい希望』の中で核時代において平和を実現するためには世界国家を創設する以外に方法がないことを主張している。またフランスの哲学者レイモン・アロンは核兵器によって戦争が勃発する蓋然性は低下したものの、平和を実現する可能性はなくなったと考えていた。しかし、一方で異なる見解が政治学者ジョン・ルイス・ギャディスによって示されている。彼は二つの超大国による対立は国際関係の安定化をもたらし、局地的な紛争があったものの全体的には長い平和が実現されたと認識していた。だが、冷戦が終結すると新しい平和の問題が浮上し、テロリズム貧困内戦という戦争に至らないまでも人道の危機に陥っているために平和な状態とは言えない中間的な状態が頻発するようになる。平和学の提唱者であるヨハン・ガルトゥングは行為主体が特定できないような間接的、潜在的な暴力を構造的暴力として概念化し、これを取り除いた状態を改めて平和の目標と定め直している。また冷戦の終結は国際連合の平和維持活動にも発展の可能性を与え、事務総長ブトロス・ブトロス=ガーリは『平和への課題』の中で平和執行という新しい活動を国連の平和活動として位置づけた。
資本主義と平和主義の関連[ソースを編集]ヴォルテールモンテスキュー

歴史学者ジェリー?ミュラーの学術書『資本主義の思想史』(2018年 原著2002年)によると、資本主義下では様々な異なる宗教信者同士であっても「平和」に取引しており、これをヴォルテールは重視した[19]。例えばイギリスの王立証券取引所について、彼は次の通り記している[20]ユダヤ人、 回教徒[ムスリム]、キリスト教徒が、まるで同じを崇拝するかのように互いに接している。この場で不信心者とされるのは破産者だけだ[20]

ヴォルテールが見て取ったように、金銭信条人種といった違いを解消する[20]。彼の資本主義観に共通する考えを持つモンテスキューは、市場が人々の気質を「温和」にすると述べている[19]17世紀暴力的・軍事的な時代にした大きな要因は戦争宗教戦争)であり、その影響は後世にも及んでいた[19]。市場とは、そのような対立を弱めていったものである[19]

ヴォルテールからデヴィッド?ヒュームアダム?スミスへと至る人々は、市民的な市場社会を先導した[21]。彼らが探していたものは、利己心が社会に役立つ可能性だった[21]。18世紀初頭になると、バーナード?デ?マンデヴィル流の資本主義観が現れた[22]。この類の資本主義観によれば、暴力よりも私利私欲を追求することで生活科学技術革新が進んでいくと同時に、宗教・民族による対立や戦争は減少していく[21]。その後はスミスが経済モデルを提供し、これによって国家間の関係をより「国際主義的」・「平和主義的」に捉えることができるようになったと考えられている[8]。またマンデヴィル流の資本主義観は19世紀以降にも受け継がれており、この観点は資本主義に対する賛否の両論に共通している[21]
宗教や伝統への批判[ソースを編集]ホッブズ

ミュラーによれば、封建主義時代の特徴である土地は、当時の主要な生産手段であり、政治的・軍事的に支配されていた[23]。このような状況下では、支払いの手段さえあれば誰にでも土地を売却するという資本主義的な行動はあり得ない[24]。しかしこのような封建主義は1700年までに崩れつつあり、ヨーロッパの中で最も経済的に進歩した地域では廃れていた[24]

もともと宗教的だった戦争や、伝統的な国政は、トマス?ホッブズなどの論者たちによって弱体化した[25]。この17世紀の政治理論家たちは、宗教的迫害や戦争を防いで、市民の経済活動を発展させようとした[25]。彼らには様々な違いもあったが、「平和」を維持し、同胞をより「幸福」にする方策については一致していた[25]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:100 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef