平原郡_(山東省)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

北魏の時、平原郡は済州に属し、聊城・博平・?平・西聊の4県を管轄した[6]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、平原郡は廃止された。589年(開皇9年)、徳州が置かれた。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、徳州が平原郡と改称された。平原郡は安徳・平原・東光平昌長河将陵・般・弓高胡蘇の9県を管轄した[7]

621年武徳4年)、唐が竇建徳を滅ぼすと、平原郡は徳州と改められ、安徳・般・平原・長河・将陵・平昌の6県を管轄した。742年天宝元年)、徳州は平原郡と改称された。758年乾元元年)、平原郡は徳州と改称され、平原郡の呼称は姿を消した[8]

安史の乱の時に顔真卿が守護した平原城は徳県にあったものである。一方、平原県は北斉の再置以来の同一名称・場所に継続して置かれている。
僑置平原郡

東晋の劉裕の北伐により南燕を滅ぼすと、済水南岸の広宗県に平原郡が置かれた。南朝宋のとき、平原郡は広宗・平原・鬲・安徳・平昌・般・?平・高唐の8県を管轄した[9]。北魏の慕容白曜がこの地を奪うと、東平原郡と改められた。北魏の東平原郡は斉州に属し、平原・鬲・臨済・?平・広宗・高唐の6県を管轄した[6]

南朝宋元嘉年間、南?州に南平原郡が僑置された。南平原郡は平原・高唐・?平の3県を管轄した[10]
脚注^漢書』地理志上
^後漢書』郡国志四
^三国志』武帝紀
^晋書』武帝紀
^ 『晋書』地理志上
^ a b魏書』地形志二中
^隋書』巻三十 志第二十五 地理中「平原郡開皇九年置コ州。統縣九,戸十三萬五千八百二十二。」s:zh:隋書/卷30
^旧唐書』地理志二
^宋書』州郡志二
^ 『宋書』州郡志一










漢朝の行政区分

 前漢

司隷校尉部

京兆尹渭南郡

左馮翊河上郡

右扶風中地郡

河南郡

河東郡

河内郡

弘農郡

豫州刺史部

潁川郡

汝南郡

梁国(?郡)

沛郡

?州刺史部

淮陽国淮陽郡

陳留郡(済川郡)

定陶国(済陰郡

東郡

山陽郡(昌邑国)

東平国

泰山郡

城陽国

青州刺史部

斉郡

済南郡(博陽郡)

済北国

平原郡

千乗郡

?川国

高密国膠西国

北海郡

膠東国

東?郡

徐州刺史部

東海郡

楚国彭城郡


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:95 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef