583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、平原郡は廃止された。589年(開皇9年)、徳州が置かれた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、徳州が平原郡と改称された。平原郡は安徳・平原・東光・平昌・長河・将陵・般・弓高・胡蘇の9県を管轄した[7]。
621年(武徳4年)、唐が竇建徳を滅ぼすと、平原郡は徳州と改められ、安徳・般・平原・長河・将陵・平昌の6県を管轄した。742年(天宝元年)、徳州は平原郡と改称された。758年(乾元元年)、平原郡は徳州と改称され、平原郡の呼称は姿を消した[8]。
安史の乱の時に顔真卿が守護した平原城は徳県にあったものである。一方、平原県は北斉の再置以来の同一名称・場所に継続して置かれている。 東晋の劉裕の北伐により南燕を滅ぼすと、済水南岸の広宗県に平原郡が置かれた。南朝宋のとき、平原郡は広宗・平原・鬲・安徳・平昌・般・?平・高唐の8県を管轄した[9]。北魏の慕容白曜がこの地を奪うと、東平原郡と改められた。北魏の東平原郡は斉州に属し、平原・鬲・臨済・?平・広宗・高唐の6県を管轄した[6]。 南朝宋の元嘉年間、南?州に南平原郡が僑置された。南平原郡は平原・高唐・?平の3県を管轄した[10]。
僑置平原郡
脚注^ 『漢書』地理志上
^ 『後漢書』郡国志四
^ 『三国志』武帝紀
^ 『晋書』武帝紀
^ 『晋書』地理志上
^ a b 『魏書』地形志二中
^ 『隋書』巻三十 志第二十五 地理中「平原郡開皇九年置コ州。統縣九,戸十三萬五千八百二十二。」s:zh:隋書/卷30
^ 『旧唐書』地理志二
^ 『宋書』州郡志二
^ 『宋書』州郡志一
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