干支
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なお、日本で初めて中国伝来の暦日を遵用して、時刻に十二支を配し、子を真夜中としたのは推古天皇12年(604年甲子の年)の正月のことであった[8]とされる。平安時代延喜年間に編纂が始まり延長5年(927年)に完成した「延喜式」でも、宮中の諸門の開閉や日の出日の入りの時刻について、「申四刻六分」のように十二支を用いて示している。
方位詳細は「方位」を参照指南」(漢代)二十四方恵方

十干は、五行説によって説明されるようになると五行が表す方位である五方と結び付けられた。さらに、後には十二支や、における八卦を交えて細かい二十四山が用いられるようになった。

十二支では、西の方位としている。東西を結ぶ線(緯線とは厳密には異なる)を「卯酉線(ぼうゆうせん)」、南北を結ぶ線(経線に相当)を「子午線」、経度0ロンドングリニッジ天文台を通る経線を「本初子午線」と呼ぶのは、これに由来する。

四隅については、北東南東南西北西がそれぞれ「うしとら」[注釈 16]、「たつみ」[注釈 17]、「ひつじさる」、「いぬい」と呼ばれ、該当する八卦から、「(ごん)」、「(そん)」、「(こん)」、「(けん)」の字を充当している。指南の実物を見るかぎり、南を指すためのレンゲの形状の磁石を置いた板の模様は、六壬神課で使用する式盤の地盤の形状に酷似している。

なお、二十四山(下表参考)では、十干のうちのは用いられない。したがって、十干のうちの8、十二支の12、八卦のうちの4を合わせての24方位となる。

漢字中国語日本語()日本語()角度方位
1子z?/??しね0°北
2癸gu? /????きみずのと15°北北東微北
3丑ch?u /???ちゅううし30°北北東微東
4艮gen/???ごんうしとら45°北東
5寅yin /???いんとら60°東北東微北
6甲ji? /????こうきのえ75°東北東微東
7卯m?o /???ぼうう90°東
8乙y? /??いつきのと105°東南東微東
9辰chen /???しんたつ120°東南東微南
10巽xun /????そんたつみ135°南東
11巳si /??しみ150°南南東微東
12丙b?ng /????へいひのえ165°南南東微南
13午w? /??ごうま180°南
14丁d?ng /????ていひのと195°南南西微南
15未wei /???みひつじ210°南南西微西
16坤k?n /????こんひつじさる225°南西
17申sh?n /???しんさる240°西南西微南
18庚g?ng /???こうかのえ255°西南西微西
19酉y?u /???ゆうとり270°西
20辛x?n /????しんかのと285°西北西微西
21戌x? /???じゅついぬ300°西北西微北
22乾qian /????けんいぬい315°北西
23亥hai /???がいい330°北北西微西
24壬ren /???じんみずのえ345°北北西微北

十二支が方位と結合していくのは、漢代のことと考えられている。漢代には易の解釈学である「象数易」という学問が隆盛し、そこでは、易のや、それを構成するに、十二月、十二律(音律)、十二辰(支)、二十四節気、五行、方位などが配当され、極めて複雑な理論が編み出された。

なお、歳徳神の在する方向とされる恵方(えほう)は、その年の干名によって定められている。
干支にかかわる伝承や俗信

干支が十二獣や陰陽五行思想と結びついたことで、さまざまな伝承や俗信が生まれたが、日本に伝来すると日本固有のものとも習合して独自の俗信を生んでいった。中には、(さる)の日は「去る」と通じるので結婚式を行わないなどというものもあった。
還暦

数え年の61歳は、生まれた年(数え年では本来的には生誕直後から1歳となる)の干支に戻るので、「暦が還(かえ)った」という意味で「還暦(かんれき)」といい、歳をとる正月には、公私ともに正式に隠居して長寿の祝いをした(東洋にあっては誕生日の概念は乏しかった)。この年齢に達すると親族などが赤い頭巾ちゃんちゃんこを贈るのは、もう一度赤ちゃんに戻って「生まれ直す」という意味合いをこめている[9]。現在は、満60歳の誕生日や60周年に還暦の祝いをすることが多い。2周(120年)した場合は大還暦という。

中国では「花甲」、日本と同じように60年の長寿を祝い、無病息災を願う習慣が今も続いている。
辛酉革命、甲子革令

中国漢代緯書にみえる予言説(讖緯)である。中国よりもむしろ日本で信じられた。

辛酉天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。日本では、平安時代に政治的変革が起るのを防ぐ目的で、三善清行の提唱によって、辛酉年の昌泰4年(901年)が「延喜」と改元された。それ以来、日本では慶応に至るまで、辛酉年と前年の庚申年の2年続きで改元が実施されたが、中国ではこのような例はない。

また、『日本書紀』では、神武天皇が即位したとする年を西暦紀元前660年の辛酉の年に充てている。これについて、明治時代の歴史学者那珂通世は、『緯書』にある鄭玄の注に、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉年には大革命が起こるとの記述があり、推古天皇9年(601年)がその年に充たることから、この1260年前にあたる西暦紀元前660年を即位年に充てたとの説を立てた。また、1320年(60年×22回=1320年)周期説を採用する学者もあり、その場合、辛酉の3年後に充たる甲子年が革令(甲子革令)の年であり、白村江の戦いの翌年の甲子年(西暦664年)が基点とされる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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