干支
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現在のような順序数による紀日法がいつ始まったかはわかっていないが、現在のところ、山東省臨沂県(りんぎけん)から出土した銀雀山漢墓竹簡、および武帝7年(元光元年、紀元前134年)の暦譜竹簡の例が最古とされている。

中国でも日本でもはしばしば改定されているが、干支による紀日は古代から連綿と続いており、古い記録の日付を確定する際の有力な手がかりになる。

さらに、旧暦の月は29日また30日で規律があまりなく、閏(うるう、月と月の間にさらに一ヶ月を入れる)もあるため、干支を使えば閏があるかないかがわかる。

一例として、史料に「○月甲寅朔(1日は甲寅の日)」のように記録したら、「乙丑、…(なにかのできごと)」はその月の12日であることは自明。そして「七月甲子」と「八月甲子」の間に60日もあるなら七月と八月の間に「閏七月」があることがわかる。
干支による紀月

古くから中国では冬至を含む月を「子月」と呼んだ。

子は十二支の1番目であり「新たな生命の種が宿る時」とされており、旧命が滅し、新種が宿るため、子は十二支で唯一、生滅同梱・新旧同梱の支となる。時刻に関しても子の時刻は23:00-0:59となっており、旧から新へと切り替わることを意味する。

周代では冬至の日を新年とし、子月を1月としていたが、漢代に王朝が変わると夏暦が再び使用されるようになり、正月が寅月立春に移動し、寅月を1月とする夏暦が2000年以上も続き、現在の中国でも夏暦が使用されている。

「一陽来復」(いちようらいふく)とは、冬至を意味し、新年の到来、悪い事が続いた後で幸運に向かう事、陰気が極まった後に冬至を境に陽気に向かう事を意味し、陰暦10月は坤卦、11月は復卦に当たり、陰ばかりの中に陽が戻ることになり、復卦とは冬至の事である。

冬至は1年間で太陽の位置が最も低くなる日であり、1年間で日中が最も短くなり、冬至を境に太陽が生まれ変わり、陽気が増え始めるとされている。

天文二十四節気平気法では冬至を1年の起点としている。子の時刻は23:00-0:59となっており、二十四節気を24時間上に例えると、子月にある冬至は0:00の位置となり、次の年への移行を意味することになる。物理上は、1年間の干支は冬至で切り替わることになる。

月名には十干を加えることが代には行われており、その場合の配当は年の干名によって各月の干が割り当てられた。たとえば、寅月についていえば、甲や己の年は、乙や庚の年は、丙や辛の年は、丁や壬の年は、戊や癸の年はとなる。つまり、干名が甲である年の寅月は「丙寅月」となる。

月の十二支節気の区切り中気
天文[要曖昧さ回避]・平気法周正
旧暦夏正
新暦)甲・己年乙・庚年丙・辛年丁・壬年戊・癸年
子月大雪-小寒冬至1月
冬至で新年へ移行。新年・旧年の両方を含む月となる。11月新暦12月上旬-新暦1月上旬丙子月戊子月庚子月壬子月甲子月
丑月小寒-立春大寒2月12月新暦1月上旬-新暦2月上旬丁丑月己丑月辛丑月癸丑月乙丑月
寅月立春-啓蟄雨水3月1月新暦2月上旬-新暦3月上旬丙寅月戊寅月庚寅月壬寅月甲寅月
卯月啓蟄-清明春分4月2月新暦3月上旬-新暦4月上旬丁卯月己卯月辛卯月癸卯月乙卯月
辰月清明-立夏穀雨5月3月新暦4月上旬-新暦5月上旬戊辰月庚辰月壬辰月甲辰月丙辰月
巳月立夏-芒種小満6月4月新暦5月上旬-新暦6月上旬己巳月辛巳月癸巳月乙巳月丁巳月
午月芒種-小暑夏至7月5月新暦6月上旬-新暦7月上旬庚午月壬午月甲午月丙午月戊午月
未月小暑-立秋大暑8月6月新暦7月上旬-新暦8月上旬辛未月癸未月乙未月丁未月己未月
申月立秋-白露処暑9月7月新暦8月上旬-新暦9月上旬壬申月甲申月丙申月戊申月庚申月
酉月白露-寒露秋分10月8月新暦9月上旬-新暦10月上旬癸酉月乙酉月丁酉月己酉月辛酉月
戌月寒露-立冬霜降11月9月新暦10月上旬-新暦11月上旬甲戌月丙戌月戊戌月庚戌月壬戌月
亥月立冬-大雪小雪12月10月新暦11月上旬-新暦12月上旬乙亥月丁亥月己亥月辛亥月癸亥月

干支による紀年

紀年法とは、を記したり数えたりするための方法のことで、中国を中心とした漢字文化圏では年号紀元に基づく紀年法とともに、60年周期の干支による干支紀年法が併用されてきた。その起源は木星の観測と深い関わりがある。
歳星紀年法木星

歳星紀年法は、天球における木星の位置に基づく紀年法である。

中国の戦国時代に始まった。木星は約12年で天球上を一周し、十二次(天球を天の赤道帯に沿って西から東に12等分した12の区画)を1年に一次進む。そこで、木星は年を示す星であるとして「歳星」と呼び、木星十二次における位置でを記した。たとえば「歳在星紀(歳、星紀に在り)」は、木星天球上の「星紀」という場所に存在する年という意味である。
太歳紀年法太歳と木星の移動

太歳紀年法は、木星の鏡像である太歳天球における位置に基づく紀年法である。

木星天球上を十二次に沿って西から東に進むが、当時の人たちがよく使っていた十二辰(天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分した区画、十二支が配当された)に対しては、運行の方向と順序が逆であった。そこで、木星の円軌道に一本の直径を引き、その直径を軸に木星と線対称の位置に存在する太歳という仮想の星を設定し、その十二辰における位置で年を記すようにしたものである。

中国の戦国時代には、この直径はの起点との起点とを結んで引かれ、たとえば、「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、その年は太歳の位置に存在する年、つまり木星の位置に存在する年のことである。その翌年は「太歳在卯」となり、太歳木星に位置する。

さらに、「太歳在寅」「太歳在卯」と記録する代わりに、太歳が位置する各「年」に名称を設けて使用することが行われた(『爾雅』「釈天」より)。

太歳の位置
歳名困敦赤奮若摂提格単閼執徐大荒落敦?叶洽?灘作?閹茂大淵献
コントンセキフンジャクセッテイカクゼンエンシュウジョダイコウラクトンショウキョウコウトンタンサクガクエンモダイエンケン

漢代に入ると、『淮南子』天文訓に「淮南元年冬、天一在丙子」と記述されるように、十干と組み合わせた干支で太歳の位置が記述されるようになった。

この太歳の位置を示す十干にも歳名が付けられた。

太歳の位置
歳名閼逢旃蒙柔兆強圉著雍屠維上章重光玄?昭陽
エンホウセンモウジュウチョウキョウギョチョヨウトイジョウショウチョウコウゲンヨクショウヨウ

この十干(歳陽)と十二辰(歳陰)の歳名とを組み合わせ、例えば、ある年を閼逢摂提格とすると、その翌年は旃蒙単閼、第3年は柔兆執徐…となり、第60年の昭陽赤奮若に至ると、再び閼逢摂提格から始めるという60年周期の歳名とした。

ただし、木星の公転周期は正確には11.862年であるため、実際には1年に一次と少し進んでいることになり、約86年に一次(太歳は一辰)ずれることになる。これを「超辰」と呼ぶ。この超辰によるずれを解消するため、??暦では、太歳を設定するための直径をの起点との起点に引き、秦の始皇帝元年(紀元前246年)を木星にあり、太歳にある年とする新しい基準を設けた。

前漢太初元年(紀元前104年[注釈 5]の改暦(太初暦)では、超辰を行い、丙子丁丑に改めた。後に三統暦の補正では超辰は114年に一次ずれると定義し、太初元年を再び丙子に戻し、太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌へ超辰するとした。これによって三統暦による太歳紀年と後の干支紀年は太始2年から見かけ上、同じになる。
干支紀年法

後漢建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉?三統暦の超辰法に従うならば、庚戌辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰を行わず、庚戌のまま紀年を続けた。さらに元和2年(西暦85年)の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された[注釈 6]。これ以後、木星を観測して、その位置でを記録することはなくなった。この時から、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、絶えることなく現在まで続いている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である。西暦2024年の干支は甲辰である。

民間では干支のうちの十二支の部分だけを用い、それに動物を配当した生肖紀年法が今も広く用いられている。なお、広開土王碑12世紀成立の高麗朝による正史三国史記』の干支に1年の違いがあるなど、時代や地域によっては必ずしも一定しないことも散見される。
生肖紀年法詳細は「十二支」を参照

十二支と十二[注釈 7]がいつから結びつけられたのかは不明であるが、代の墓から出土した睡虎地秦簡[注釈 8]に含まれる『日書』には既に現在のように動物[注釈 9]が配当されている様子が伺われる。

後漢王充が著した『論衡』物勢篇では、十二支を動物名で説明しており、これによって干支の本来の意味が失われ、様々な俗信を生んだ。ただし、時刻方位などを干支で示す慣習が廃れた今日でもなお、干支紀年に限っては今なお民間で広く定着している要因ともなっている。日本風習である年賀状[注釈 10]などにも動物の絵柄が好んで描かれているが、下表のとおり、配当される動物にはによって違いが見られる[注釈 11]西暦2024年の十二支は辰で、生肖は龍があてはまる。

各国の十二獣子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥
中国の十二獣鼠牛虎兎竜蛇馬羊[注釈 12][注釈 13]鶏狗猪([注釈 14]
日本の十二獣
韓国の十二獣鼠牛虎兎竜蛇馬羊猿鶏犬豚
タイの十二獣鼠牛虎竜蛇馬山羊猿鶏犬豚
ベトナムの十二獣鼠水牛竜蛇馬山羊猿鶏犬豚
モンゴルの十二獣鼠牛・虎兎竜蛇馬羊猿鶏犬豚
インドの十二獣鼠牛虎兎竜蛇馬羊猿ガルダ犬豚
アラビアの十二獣鼠牛虎兎蛇馬羊猿鶏犬豚
ロシアの十二獣鼠牛虎兎・猫竜蛇馬羊・山羊猿鶏犬豚
ベラルーシの十二獣鼠牛虎兎・猫竜蛇馬羊猿鶏犬豚

干支紀年と日本稲荷山古墳埼玉県行田市

干支紀年の日本への伝来時期はよくわかっていない。日本に中国の暦本百済を通じて渡来したのは欽明天皇15年(554年[6]とされるが、実際には、それ以前にさかのぼる可能性が高い。上述のように、日本で最初の暦がつくられたのは604年(推古12年)のことと伝わる[3]

埼玉県行田市埼玉の埼玉古墳群の一つ、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵(わかたける)大王」を雄略天皇とする考えが主流であることから、「辛亥年」を471年とする説が有力である。


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