幕末期
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また、旧幕府軍による抵抗が終わった箱館戦争の終結(1869年)、幕藩体制が完全に終結した廃藩置県を断行した1871年8月29日明治4年旧暦7月14日)、西欧式の太陽暦であるグレゴリオ暦元号に採用する前日の1872年12月31日明治5年旧暦12月2日)なども終期となりうる。

幕末は、「西洋の衝撃」を受けた国防意識の高まりとナショナリズムの勃興を背景に、水戸学のような日本型華夷思想を基盤として国体意識が高まり、徳川将軍が事実上の国家主権者として君臨する幕藩体制が解体され、国内の政治権力の再編が進む過程である。その中心を担ったのは薩摩藩長州藩土佐藩肥前藩などの、いわゆる西南雄藩であった。この時期には「鎖国」を放棄して開港した日本が、外国との自由貿易の開始によって世界的な資本主義市場経済植民地主義に組み込まれた。また一部での排外主義(尊王攘夷運動)の高まりにもかかわらず、列強の圧倒的な存在感により社会自体が西洋文明の影響を受けて劇的に変化していった時期でもある。この幕末の過程は、たとえば島崎藤村の長編小説『夜明け前』など多くの文学作品にも描かれている。

政治的側面においては、幕末を、単なる過渡期とするか、あるいはそれ以前以後とは異なった独自の政治体制とするかの2つの見方に分かれる。一方で、国際関係史的には「近代」として扱われ、一連の条約の締結により日本が西洋近代システムへの参入を果たした幕末から、第二次世界大戦で敗れて天皇を主権者とする帝国主義国家が崩壊するまで、即ち開国1854年)から第二次世界大戦敗北1945年)までを「近代」とする見方も存在する。幕末とそれに続く明治時代は「幕末・明治」として一括されて呼ばれることも多い。
政治史

  黒船来航以前については幕末の砲艦外交を参照。
条約締結と将軍継嗣問題(1853年 - 1858年)外国勢を迎え撃つために、品川台場に設置されていた80ポンド青銅製カノン砲(口径250mm、砲身長3830mm)

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカ合衆国が派遣したペリー提督率いる4隻の黒船浦賀沖に来航し[1]江戸幕府に開国を迫る大統領国書をもたらした。老中首座の阿部正弘備後福山藩主)は、海防参与徳川斉昭(前水戸藩主)らや、松平慶永(春嶽、越前藩主)・島津斉彬薩摩藩主)ら親藩外様大名をはじめ、庶民にいたるまで対応意見を求めた。こうした激動の中、将軍徳川家慶が死去し、世子の家定が13代将軍に就任する。

翌1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に再来したペリーは、重ねて開国を要求する。全権の林復斎(大学頭)らとの交渉により、1854年3月31日(嘉永7年3月3日日米和親条約が締結され、いわゆる「鎖国」体制は終焉した[2]。また、英国のスターリング水野忠徳の交渉で1854年10月14日(嘉永7年8月23日)に日英和親条約ロシア帝国プチャーチン川路聖謨らの交渉により1855年2月7日(改元して安政元年12月21日)に日露和親条約[3]、やや遅れて1856年1月30日12月23日)には 日蘭和親条約調印が締結された。国交を樹立した幕府での体制再編のため阿部は幕府や外部からの人材登用、研究教育施設の創設、軍事体制の再編を行っている。永井尚志岩瀬忠震大久保一翁海防掛目付登用や長崎海軍伝習所蕃書調所の設置などもそのひとつである[4]。開国以前より継続していたこれらの改革は安政の改革と呼ばれ、勝海舟もこの動きの中から注目される[5]

日米和親条約では、薪水の給与のための下田箱館開港と並んで、両国の必要に応じて総領事が置かれることとなり、1856年(安政3年)米国はハリスを下田に派遣する。ハリスは自由貿易と開港を目的とした通商条約の締結を幕府に迫る。阿部死後、老中首座となった堀田正睦は徳川斉昭を罷免し、ハリスを下田より上府させ、1857年12月7日(安政4年10月21日)には将軍徳川家定に拝謁させた。ハリスは江戸で第二次アヘン戦争におけるの敗北などの世界情勢を堀田に伝え、英仏が日本に不利益な条約を強制する危険があると主張した。この事態を避けたければアメリカとの条約を先に締結するべきとするハリスの発言について、堀田は虚偽を含む主張と承知しながらも通商条約締結は不可避と判断し、交渉を進めた。合意した内容は、領事裁判権を認め、関税自主権を有さず、かつ片務的最恵国待遇を課した不平等条約であった[注釈 1][6]幕末の期間、帝位に在位していた孝明天皇

条約内容に合意した後、堀田は孝明天皇勅許を求めるべく、上洛して関白九条尚忠を通じて工作をおこなわせた[7]。しかし、孝明天皇は異国人撫恤のための薪水給与は認めていたが、開市(外国人の国内の居住)や開港には反対しており、また岩倉具視ら多くの公家が関白の幕府寄りの姿勢を批判したため(廷臣八十八卿列参事件)、勅許は得られなかった。一方、病弱であった将軍家定に子がなかったため、将軍の継嗣を誰にするかについても国内世論が二分した。紀州藩徳川慶福を推す南紀派と、一橋徳川家当主徳川慶喜を推す一橋派が激しく対立し、条約問題とともに江戸・京都での政治工作が熾烈化した(将軍継嗣問題[8]。一橋派では橋本左内(越前藩士)・西郷隆盛(薩摩藩士)、南紀派では長野義言彦根藩士)ら下級武士がこれら工作に活躍した[8]。のちに島津斉彬はこれらの問題の解決を図るため、率兵上京を試みるが、決行の直前に病を得て急死した。
安政の大獄と桜田門外の変(1858年 - 1860年)

1858年6月4日(安政5年4月23日)に大老に就任した井伊直弼彦根藩主)は、将軍継嗣問題と条約問題とを強権的な手法で一気に解決をはかった。すなわち、将軍職については、大老就任直後の1858年6月11日(安政5年5月1日紀州慶福を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、江戸城へ入った(将軍就任は安政5年10月25日)。


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