常設国際司法裁判所
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1923年3月1日、ルイ・バルボーザはいずれの裁判にも参加することなく死亡し、後継にエピタシオ・ペソア(英語版)が選出された[21]

翌1924年には、裁判所に持ち込まれた事件は2事例の判決(「マブロマチスのパレスタイン・コンセッション事件(ドイツ語版)」[A 2]、「ヌイイ条約の解釈事件」[A 3])と1事例の勧告的意見(「Saint-Naoum僧院事件」[B 9])に減少した。また同年、任期が3年と決められていた裁判長と副裁判長の改選が行われた。9月4日に行われた選挙では、シャルル・アンドレ・ヴェイスが再度副裁判長に選出され、二代目裁判長にはマックス・フーバーが選ばれた[22]。同時に判事の年金制度も考案され、判事は退官後、あるいは65歳になると毎年受け取っていた年俸の30分の1を受け取れることになった[23]

1925年、裁判所は210日間開廷し、通常開廷期に加えて4度の特別開廷期に3事例の判決と4事例の勧告的意見が下された。最初の判決は「トルコとギリシャの人口交換事件」[B 10]で、「ヌイイ条約の解釈事件判決の解釈事件」[A 4]がこれに続き、さらに「マブロマチスのエルサレム・コンセッション事件」[A 5]と判決が続いた[24]。同年に下された勧告的意見は、「ダンチッヒにおけるポーランドの郵便事務事件」[B 11]、「総大司教追放事件」[C 1]、「ローザンヌ条約解釈事件」[B 12]、「上部シレジアのドイツ人権益事件」[A 6]の4事例であった[25]。1926年になると裁判所に持ち込まれる事件の数は減少し、通常開廷期と特別開廷期が、それぞれ一度だけ開かれた。この年は11人の判事全員が初めて裁判に出席した年であった[26]。裁判所は判決を1事例、勧告的意見を1事例下した。「上部シレジアのドイツ人権益事件」[A 6]を再び審理したが、このときは勧告的意見と言うよりも判決に近い形であった[27]。そして前述の国際労働機関についての勧告的意見が、この年ひとつの判例[C 2]に統合された[28]

1927年は、前年と比べると裁判所の業務は増加した。6月15日から12月16日まで継続的に開廷し[29]、「ベルギー中国1865年条約破棄事件」[A 7]、「ホルジョウ工場事件」[A 8]ローチュス号事件[A 9]に関する判決と、1925年から引き続く「マブロマチスのエルサレム・コンセッション事件」[A 5]の判決が下された。勧告的意見は4事例下され、そのうち3事例が「ダニューブ河ヨーロッパ委員会の権能に関する事件」[B 13]についてのもので、もうひとつは「ダンチッヒ裁判所の権能に関する事件」[B 14]であった[30]。また、「上部シレジアのドイツ人権益事件」[A 6]に関して4度命令が下された[31]。この年には選挙も行われ、ディオニシオ・アンジロッティ(英語版)が裁判長、シャルル・アンドレ・ヴェイスが副裁判長に選出された[32]。1928年、副裁判長のヴェイスが死亡し、ジョン・バセット・ムーアが退職したため、9月12日、マックス・フーバーが後継の副裁判長に選出された[33]。また、この年には判事のロバート・フィンレイ(英語版)も死亡したため、裁判所は人員不足に陥った[34]。1929年9月19日、ムーアとフィンレイの欠員を補うための選挙が実施され、アンリ・フロマジョー(英語版)とセシル・ハースト(英語版)が選出された[35]

1930年9月には選挙がおこなわれ、裁判所は改選された。1931年1月16日、安達峰一郎が裁判長に、ホセ・グスタボ・ゲレーロ(英語版)が副裁判長に任命された[36]アメリカ合衆国もついに裁判所の管轄権を認めることとなった。1923年からアメリカの参加を主張していたウォレン・ハーディングの主導で、3つの裁判所の議定書に署名が行われた。


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