父後水尾院に寵愛され、正式な内親王宣下はなかったが、延宝5年(1677年)諱が常子と定められて以降、常子内親王といわれるようになった。寛文4年(1664年)11月12日に6歳年下の近衛基熙と結婚した。結婚後も宮廷に頻繁に出入りし、夫基熙とともに兄弟姉妹や東福門院との交流も密であったが、基熙が霊元天皇とはしっくりいかなかったためか、霊元天皇に対しては批判的な面もあった。寛文6年(1666年)3月26日に長女熙子(天英院)を、翌寛文7年(1667年)6月4日に長男家熙を、寛文9年(1669年)4月27日には次男大炊御門信名を産んだ。夫基熙に先立ち元禄15年(1702年)、61歳で薨去。近衛家菩提寺の大徳寺に葬られた。
脚注^ 常子内親王→近衛家煕→近衛尚子→桜町天皇
^ 常子内親王→近衛家煕→近衛家久→近衛内前→近衛維子
参考文献
瀬川淑子『皇女品宮の日常生活:『无上法院殿御日記』を読む』岩波書店。
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