帯方郡
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帯方郡の滅亡後も地理的概念として帯方の名は残っていたようで、『広開土王碑文』によると404年に倭から百済征伐の形で北侵し、帯方界(旧帯方郡の境界?)に進入して高句麗と戦ったが無数の将兵を失ったという[5]
帯方郡治はどこにあったか

楽浪郡治の所在地が、現在の平壌の郊外、市街地とは大同江を挟んだ対岸にある楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあったことに異論はない。土塁で囲まれた東西700m、南北600mの遺構に、当時のさまざまな遺物のほか、官印「楽浪太守章」の封泥(封印の跡)までもが出土し、考古学的に明らかにされた状態といえる。これに対して、帯方郡治の比定地については決め手がなく、現代の38度線を挟んで諸説ある[6]。『魏志倭人伝』では、帯方郡が邪馬台国への旅の出発点であるだけに、かの邪馬台国論争からの関心も厚い。
南方説

ソウル説と広州説がある。広州は最初の百済の都であり、3世紀の馬韓の「伯済国」は広州にあったともされる。この二説は必ずしも対立するものではなく、初期には広州にあった帯方郡がソウルに遷り、その跡地に百済が興ったとも考えられる。
京畿道ソウル説
現在の
ソウルに帯方郡治があったとする説(関野貞小田省吾白崎昭一郎坂田隆江上波夫など)。『漢書地理志』には、前漢時代の楽浪郡25県の1つとして帯方県が記され、「帯水、西して帯方に至り海に入る」とある。この「帯水」とはどの川かとなるが、同書には明らかに大同江を指し示す「列水」がある以上、「帯水」を大同江のことと解する余地はない。最有力なのは中部を西流する大河の漢江であり、その河口部のソウルこそが帯方郡治であったという論法になる。このような文献解釈としての説得性が南方説の強みであり、最も古典的な説でもある。
京畿道広州説
ソウルの東南40kmの広州を帯方郡治に比定する説(岡田英弘、ソウルか広州のどちらかだろう〈前掲書〉)。上記のソウル説と根拠はほぼ同じで、広い意味では「ソウル近隣説」ともいえる。漢江を河口から遡ると、ソウルを過ぎて北上する北漢江と南東に向かう南漢江に分かれる。「帯水、西して帯方に至り海に入る」の「帯水」を北漢江ではなく南漢江と解すれば、帯方郡治を広州と考えることも可能である。広州はいまでこそ目立たぬ小村であるが、百済の最初の王都・慰礼城とはここであった。古代の邑城が、海からはやや離れ、少し河口を遡った小高い地に多く存在することを考えると、むしろソウルよりも相応しい場所といえる。

南方説の問題点としては、ソウルを中心として風納里土城、夢村土城、石村洞古墳群などの発掘が行なわれたものの、めぼしい発見は未だないことである。ソウルも広州も古学的裏付けが乏しく、郡治があった痕跡は希薄である。
北方説

鳳山郡説と安岳郡説がある。ともに考古学上の見地から唱えられた。この両説も南方説の場合と同じく、郡治所の移動がありうることを考えれば、必ずしも対立するものではない。
黄海北道鳳山郡説
平壌から南へ50km、
黄海北道鳳山郡沙里院にある唐土城を帯方郡治に比定する説(那珂通世白鳥庫吉榎一雄今西龍井上光貞井上秀雄鳥越憲三郎など)。楽浪郡址と同時代の瓦・?(煉瓦)・銭などが出土しているほか、1912年に付近の古墳群からは「帯方太守 張撫夷?」と刻まれた?槨墓が見つかるなど考古学的な発見は多い。
黄海南道安岳郡説
平壌の南西60km、安岳郡に比定する説。大同江河口の入江を扼する位置にあり、中国遼東半島、山東半島のどちらにも近いという海上交通の要地でもある。

北方説の問題点として、黄海北道や黄海南道では、楽浪郡に近すぎて2つに郡を分けた意味が無いという批判がある。また北方説では「韓、帯方の南にあり……方四千里ばかり」(『魏志韓伝』)という1辺4,000里の正方形にはならず、縦長の長方形になってしまい記述に合わない。この2点を掲げて批判する南方説の支持者は日本や韓国や中国に多い。
帯方郡の疆域

北方説の考古学的根拠は、必ずしも帯方郡治(帯方県)の位置を確定するものではないが、帯方郡の領域が安岳郡や鳳山郡まで広がっていたとする論拠としては問題ない。最近の説では、鳳山郡・安岳郡・信川郡など載寧江流域の一帯には、他国からの流入者・亡命者などを含めた中国人社会が(帯方郡治所のあった場所が北方か南方かにかかわらず)形成されていたという見解(東潮・前掲書)が、これらの地に?槨墓が存在する理由を合理的に説明しうるものとして注目されている。この上で、もし郡治がソウルか広州にあったと仮定した場合、帯方郡の領土はやけに細長い形になるので、岡田英弘は、帯方郡は黄海南道安岳郡から京畿道にかけての交易路に沿って、回廊状に7県がならんでいたと推定している。同様な回廊状の郡としては前漢代の玄菟郡があり、そちらは玄菟回廊ともよばれる。

帯方回廊の北端として岡田英弘は安岳郡は帯方郡の領域に含まれるが鳳山郡は含まれないとした。帯方郡の屯有県は「公孫康、屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為す」(『魏志韓伝』)とあるように当初は帯方郡に属していたが、『晋書地理誌』の掲げる帯方郡の7県には入ってはおらず、楽浪郡に入っている。つまり屯有県は楽浪郡と帯方郡の境にあり、はじめ帯方郡に属したが後に楽浪郡に移管している。
北帯方・南帯方

三国遺事』によると帯方郡には南北の二つがあるという。実際の位置は北帯方が南、南帯方が北になる。南帯方は本来の帯方郡からみて南なので理解できるが、北帯方はどこから見て・なにと比べて「北」というのか不明。『三国遺事』が南北を逆に誤記しているとも考えられる[注釈 1]

北帯方
前漢が楽浪郡と同時に設置(紀元前108年)した郡で、その郡治は今の全羅南道羅州市にあった。これが正しいとすると漢四郡(楽浪・玄菟・臨屯・真番)は実は漢五郡だったことになる。その後(紀元前82年?)独立国を自称(帯方国)していたが、37年高句麗に滅ぼされたという[注釈 2]

南帯方
220年 - 265年)の時代に今の全羅北道南原市に郡治が置かれたという。これが正しいとすると魏が遼東の公孫氏を滅ぼしその楽浪郡と帯方郡を接収した238年以降のある時、魏は一時的にせよ帯方郡を大きく南へ移動させたことになる。このような史実は仮にあったとしても瞬間風速的なもので永続的なものではなく、候補として考えられる事件としては、魏が馬韓の反乱を鎮圧した245/246年の出来事かとも思われる[注釈 3]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 実際には北帯方にせよ南帯方にせよ前後漢魏晋の時代に存在したことはない。
^ 北帯方とは実は百済滅亡後に唐が設置した帯方州(全羅南道羅州市)と古代の帯方郡を混同したものであって、史実ではない。三品彰英『三国遺事考証〈上〉』塙書房、1975年1月1日。 
^ 南帯方とは実は1309年に設置された高麗時代の帯方郡(全羅北道南原市)と古代の帯方郡とを混同したものであって、史実ではない。三品彰英『三国遺事考証〈上〉』塙書房、1975年1月1日。 

出典^

尾形勇岸本美緒 編『中国史』山川出版社〈世界各国史〉、1998年6月1日、83頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4634413306。"朝鮮半島では、衛氏の領地を奪って四郡(楽浪、真番、臨屯、玄菟)を設置した。こうして辺境地帯を郡とすることで、漢の版図は一気に拡大した。"。 

宮崎市定『世界の歴史〈7〉大唐帝国』河出書房新社河出文庫〉、1989年9月1日、312頁。ISBN 4309471668。"その中にはかつては中国の郡であった楽浪、帯方二郡を含み、その都は満州からうつって平壌におかれていた。"。 

^ 『晋書』地理志上
^三国志』魏書東夷伝韓条
^ a b c Samguk Yusa: Legends and History of the Three Kingdoms of Ancient Koreaby Ilyon tr Grafton Mintz, Ha Tae-Hung pub Yonsei University Press (1972)
^ 池上, 裕子小和田, 哲男小林, 清治 ほか 編『クロニック戦国全史』講談社、1995年12月1日、69頁。


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