将棋界では、棋士の養成機関である新進棋士奨励会に入会する際、四段以上の棋士が師匠となることを必要とする。以前は師匠の家に住み込んで雑用をこなしながら修業する内弟子制度が存在したが、中原誠・米長邦雄らの世代を最後にその習慣は廃れている。
一旦四段になれば将棋界では、同門はおろか師弟でも対戦し[注 2]、師匠が稽古場所を提供するわけでも技術指導をするわけでもない[注 3][注 4]ため師弟関係は落語や相撲ほど強いものではないが、それでもやはり棋士には師匠がいなくてはならないことになっている[注 5]。加藤一二三が名人にもなり功成り名遂げた後に「わけあって今の師匠(南口繁一)の門下でいたくない」と言いだしたときにも、別の棋士(剱持松二)を新たな師匠に選ぶ形としている。剱持は四段になったのが加藤より遅いのだが、「師匠不在」に比べれば「後輩の弟子」のほうがより許容範囲内とみなされたようである。
順位戦では、A級・B級1組では師弟戦は中盤で組む慣例となっている。 弟子を取らないことを宣言する者もおり、浄土真宗開祖の親鸞は「弟子一人ももたず」(歎異抄)とし、将棋棋士の羽生善治は「将棋は、『この人についたから絶対に強くなれる、棋士になれる』という保証はありません」「弟子に選ばれた・選ばれなかったということはどこかで影響を与えてしまうかもしれない。なので受けていません」[3]、作家の坂口安吾は「弟子というものが、先生に似たら、もう、落第だ。半人前にもなれやしない。自分に似たものを見るのは、つらい」として弟子をとっていない[4]。 芸人のタモリは「これ(自分の芸は)センスだから。教えられるものじゃないから。俺そういうことで弟子を取らない」として弟子を取らない主義だったが、岩井ジョニ男に49日間粘られて流石に参り弟子入りを許した[5]。
弟子を取らない
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 例外として、落語三遊協会を率いていた6代目三遊亭圓生が死去した際、落語協会に復帰した圓生門下のうち、前座・二つ目の身分だったものは、すべて師匠のいない協会預かりの身分とされた。落語協会分裂騒動#騒動の収束、三遊亭圓龍などを参照。
^ ただし、対局規定
^ トーナメントよりもレッスンに重点をおいている棋士や退役棋士が師匠となった場合、師匠には新四段ほどの実力がない場合も珍しくない。また、トップを狙える才能のある弟子にとっては、たとえ現役でもレッスン重点の師匠の将棋に魅力が感じられないこともあり、米長邦雄と内藤國雄に「奨励会時代、師匠に自分の将棋を参考にするよう言われたが断った」という逸話がある(両者とも師匠と険悪なわけではなかった)。
^ 花村元司は弟子との練習対局を積極的に行ったが、このような師匠は稀である。
^ ただし、LPSAからデビューする女流棋士については師匠を決めることは必須ではなく、(現行規定によるものではないものの)渡部愛はプロ入り時点から師匠不在となっている。
出典^ a b c d 大野?『ポケット図解 ドイツ連邦がよーくわかる本』秀和システム、2006年、102頁
^ 大野?『ポケット図解 ドイツ連邦がよーくわかる本』秀和システム、2006年、103頁
^ 羽生善治三冠が弟子をとらないのはナゼ? 「ニコニコ超会議2017」で明かされたそのワケが共感を呼ぶ 。マイナビニュース