帝銀事件
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^ 琺瑯質(ほうろうしつ)は「エナメル質」のこと。後藤仁敏「琺瑯質かエナメル質か、間葉性エナメル質かエナメロイドか」『鶴見大学紀要. 第3部保育・歯科衛生編』第51号、鶴見大学、2014年3月、71-86頁、doi:10.24791/00000109、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISSN 0389-8024、NAID 120006549053。 によると、1950年以前、つまり帝銀事件が起きたころの日本語では「琺瑯質」が一般的であった。「エナメル質」という言葉が広まったのは帝銀事件のあとの1950年代からで、特に藤田恒太郎著『歯の組織学』(1957年<昭和32年>刊)の影響が大きかった。ただし、東京歯科大学だけは「琺瑯質」を1994年(平成6年)まで使い続けた。ネットなどで流布している俗説「琺瑯質という歯科用語は、現在の東京歯科大学とその前身の東京歯科医専の出身者しか使わない特殊な用語で、これは真犯人が東京歯科医専の系統の歯科医である証拠」は誤り。
^ a b c d e f g 佐々木嘉信(著)・平塚八兵衛(述)『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫、2004年。原著は1975年刊)
^ a b c d 中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』(東京図書出版会,2008)ISBN 978-4862232755
^ 帝銀事件の裁判で平沢貞通に死刑判決をくだした裁判官・江里口清雄によると、この巡査は「交番の若い教習所を出たばかりのおまわりさん」だった。自称「厚生技官」の犯人が行員らに薬を飲ませようとしたまさにその時、この若い警官がきて「赤痢がどこに出たのですか」と聞いた。すると犯人は「そんなことを警察が知らぬようじゃしょうがないじゃないか」云々と警官を怒鳴りつけた。若い警官は恐縮し、敬礼して出て行った。それを見た行員らは、それまで疑いの気持ちをもっていたのに、警官の態度を見て、てっきり本物の厚生技官であると信用してしまった。江里口清雄は「この警察官は意識しない犯罪幇助」を犯してしまったと述べ「事実の中には全く頭などでは考えられない、小説家でもちょっと思いつかないような事実があるのであります」と評した。また江里口は、この時は犯人の薬が非常に薄かったため効き目がなく未遂に終わったこと、1人だけ最後まで犯人を疑い薬を飲むふりだけして飲まなかった者がいたこと、もし犯人の毒薬が濃く死者が出ていたら毒を飲んだふりをした者がいたため失敗していたはずであることも述べている。出典:江里口清雄「法廷における弁護活動」、日本弁護士連合会編『特別研修叢書 昭和41年度上巻』pp.128-129 (国会図書館 永続的識別子 info:ndljp/pid/3454264)
^ 現行の刑事訴訟法は、帝銀事件発生の半年後、1948年(昭和23年)7月10日に公布され、容疑者の裁判が始まったあとの1949年(昭和24年)1月1日から施行された。
^ a b c d e f g 高木一(たかぎ・はじめ)「帝銀事件と白鳥事件」、野村二郎『法曹あの頃(下)』(日評選書、1981年)pp.176-190
^ a b c d 出射義夫(いでい・よしお 1908年-1984年)『検事の控室』(中公文庫、1986年)。pp.220-235に「帝銀事件の問題点」を収録。
^ 「第2回国会 衆議院 本会議 第13号 昭和23年2月2日」006 鈴木義男 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/100205254X01319480202/6
^ 帝銀事件の捜査線上に浮かんだ容疑者は約5800名にも及んだ(高木1981、p.179)。平沢は、帝銀事件の犯人の人相と似ていたため、比較的早い段階で捜査の対象になったものの、有力容疑者にはなっていなかった。1948年8月18日、平塚八兵衛が話をきくため平沢の長女の勤め先に行くと、初対面の長女は「また、調べられるのですか」と言って急に泣き出し、平塚を驚かせた。以前、平塚とは別の刑事が聞き込みに来たことがあり、長女は、もし父が本当に犯人だったら、と気をもんでいたためであった。出典:『刑事一代』新潮文庫版、pp.120-123
^ この人相書を描いたのは、浅草の絵師・海老根駿堂である。海老根を捜査本部に推薦したのは、かねがね彼の腕前を認めていたGHQの警察司政長官ヘンリー・イートンだった。海老根は2件の未遂事件と帝銀事件の目撃者に会い「英語を話す男」「温和な風貌」「何か仕事に疲れでもしたドンヨリした眼つき」などの証言も参考にして犯人の似顔絵をかきあげた。この人相書は捜査に大いに役だった。のちに容疑者として平沢「画伯」が浮上すると、海老根は同じく絵をなりわいとする者としてショックを受けた。彼は、自分の人相書があっているかどうかを確かめるため、上野駅に行き、護送されてきた平沢の顔を見た。おとがいの尖りが海老根の思っていたより強い角度だったこと以外は、人相書とだいたい同じだったので、海老根は安心した。出典:矢田喜美雄「帝銀事件余聞 人相書を描いた絵師の話」、『週刊朝日』増刊・炉昭和24年(1949年)7月1日号, pp.92-98
^ 居木井為五郎「帝銀事件 捜査記録(上)」、『旭の友 9(4)(105)』(長野県警察本部警務部教養課、1955年4月)pp.24-36 (国会図書館・永続的識別子: info:ndljp/pid/2632162 )
^ 『週刊新潮』昭和60年(1985年)5月23日号で、居木井為五郎は当時を回想し「捜査本部は七三一部隊に的を絞っていたために全然相手にしてくれない。最後には『お前は気が違ったんじゃないか』とまで面罵されましたよ」「藤田刑事部長が、平沢逮捕の断を下してくれた」と語っている。
^ 藤田次郎と東大で同期だった検事の高木一の証言によると、当時の藤田は「困ったことになった」と話し、平沢逮捕に踏み切った背景について「とにかく決着をつけねばならない状態でした。捜査は純粋なものだし、きちんと始末をつけ、それから前進しようといって、結局、居木井君を北海道に二度目に行かせた折に平沢を逮捕することになりました。/逮捕する段階でも、シロともクロとも断定したわけではありません」と述べている(野村二郎『法曹あの頃(下)』p.179)
^ 「第2回国会 参議院 司法委員会 閉会後第1号 昭和23年9月13日」「003 田中榮一」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/100214390X00119480913/3
^ a b c d 居木井為五郎「帝銀事件 捜査記録(下)」、『旭の友 9(6)(107)』(長野県警察本部警務部教養課、1955年4月)pp.20-31 (国会図書館・永続的識別子: info:ndljp/pid/2632164 )
^ a b c d 森川哲郎『獄中一万日 追跡帝銀事件』図書出版社、1977年1月20日刊 ISBN 978-4809900358
^ a b c 福島章・中田修・小木貞孝編『日本の精神鑑定 : 重要事件25の鑑定書と解説1936-1994』(増補新版、みすず書房、2018年)。同書p.267-p.332の内村祐之・吉益脩夫「帝銀事件」は、内村祐之、吉益脩夫「脱髄脳炎後の空想虚言症とその刑事責任能力について」『精神神経学雑誌』第59巻第5号、日本精神神経学会、1957年5月、ISSN 00332658、NAID 40017966715。  の主要部分を転載したものである。
^ 正木亮は法廷弁論の中で、平沢を「実に嘘つきであります」と批判し、平沢が疑惑の預金の出所について「この点さえ真実を述べれば事件は寸刻を出でずして片付くのであります」「本当に本件に関係のない金なら弁護人にだけはそっと知らして呉れたらよさそうなものである」と不満を述べつつ、「もしも平沢貞通が大正十四年に狂犬病の予防注射を打つことがなかったならば不幸なるコルサコフ病に罹ることもなく、また今日のような嘘つきにもならなかったのであるとされております」「(平沢に)嘘つきだという悪名をかぶせはしますけれども、証拠のはっきりしないものを死刑にすることはよくないということに気がつくようになりました」と弁護した。出典: 正木亮『死刑 消えゆく最後の野蛮』(日本評論社、昭和39年)p.111-p.125。なお正木は、平沢の死刑確定後の1955年(昭和30年)7月14日、国会で「私は心証から申しますと、平沢貞通が真犯人じゃないかと思っておるのであります」と述べた。出典: 「第22回国会 参議院 法務委員会 第15号 昭和30年7月14日」「021 正木亮」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/102215206X01519550714/21
^ 佐伯省『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件』(批評社、2002年)
^ 平沢武彦「小樽で平沢貞通氏の春画発見!」 https://www.gasho.net/teigin-case/jiken/shunga/shunga.htm 2021年6月30日閲覧
^ a b c d 遠藤誠『帝銀事件の全貌と平沢貞通』(現代書館、2000年)。
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