市谷本村町
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歴史1907年(明治40年)当時、市ヶ谷台陸軍士官学校本部(奥)と正門(手前)。「市ヶ谷台上」とも称されていた通り陸士は台地に置かれ、この丘は現在の防衛省市ヶ谷地区にも残り陸士跡に建つ防衛省市ヶ谷庁舎も丘の上にある。本部と正門の間にある坂が武窓用語における「極楽坂」と「地獄坂」市谷高力松(東京府史蹟名勝天然記念物調査報告書2・1924)

町名は、市谷の「本村」であったことによると考えられる。正和元年(1312)の鶴岡八幡宮文書に「市谷孫四郎」という人物が見えることから、このあたりは鶴岡八幡宮の所領であり、市谷亀岡八幡宮が勧請されたものと推定されている。本村町は市谷亀岡八幡宮の氏子区域である。

江戸時代、町域の大半は尾張徳川家上屋敷で占められていた。外堀通りの高力坂上から防衛省正門前へ通じる車道で分断された南西側の低地部分も本村町の一部であったが、1880年に四谷区に編入されて四谷区本村町となり、行政区画上は牛込区の市谷本村町から分離した。尚、四谷区の本村町は、1943年に四谷塩町一丁目・七軒町と統合されて「本塩町」という合成地名となった。1881年に市ヶ谷田町四丁目を編入。

河田町富久町から流れだす紅葉川と呼ばれた細流が合羽坂[6]を経て市谷見附付近で外堀に合流し、飯田橋の方へ流れており、この流れが尾張藩邸の南縁となり、道路をはさんだ北側は御先手組屋敷と民地となっていた。関東大震災以後の帝都復興事業の中で、旧紅葉川に沿った道路を拡幅して青梅街道につながる靖国通りが造成されたが、軍用地に向き合う片側町であったため、商業には不向きな寂しい地域であることに変わりはない。

靖国通りと外堀通りにはさまれた地域も、民家はあるが、外堀に面した片側町であり、江戸時代には辻斬りの噂が出るような寂しい通りであった。外堀に沿って四谷見附に向かう途中、本塩町雪印乳業本社手前で大きくカーブをえがくところが高力坂(こうりきざか)で、旗本高力邸跡には「高力松」と呼ばれる名木が残り、外堀越しに遠望できたことからランドマークとして大正時代まで地域のシンボルになっていた[7]

尾張藩邸跡一帯は明治時代以降、陸軍士官学校が置かれていたが、規模拡大のため1937年に陸軍士官学校(本科)は座間(相武台)に移転。さらに1941年9月には残っていた陸軍予科士官学校朝霞(振武台)に移転した。かわって同年12月8日から15日にかけて、陸軍省参謀本部大本営陸軍部)、教育総監部陸軍航空総監部の省部が三宅坂一帯からこの陸士跡地に移転し、大日本帝国の国防の中心地となった。また、このように陸軍中枢が集積していたこの地を「市ヶ谷台」とも通称していた。

戦後極東国際軍事裁判(「東京裁判」)が旧陸士大講堂で行われた。以降この地は現在まで自衛隊陸上海上航空それぞれの駐屯地・基地として用いられた。また2000年になると、旧防衛庁が赤坂から当地に移転し、2007年には防衛庁が防衛省に昇格するなど防衛省市ヶ谷地区の再編が行われ、日本の国防の中心地となった。

1970年三島由紀夫東部方面総監部本館(旧陸士本部)のバルコニーから自衛隊員に決起を促し、総監室で割腹自殺を果たした場所としても知られている(「三島事件」)。1984年に従前の町名町界を継承する形で住居表示が実施された。
世帯数と人口

2023年(令和5年)1月1日現在(東京都発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]

世帯数 : 1,796世帯

人口 : 2,705人

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。


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