市民法大全
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フランス民法、オーストリア民法に取り入れられている。
新勅法

『新勅法』(Novellae)は、『勅法彙纂』完成以後、ユスティニアヌス帝逝去までに発せられた168の勅法の総称である。他の法典はラテン語で書かれているのに対し、原法文の大部分が帝国内で公用語化が進みつつあったギリシャ語で書かれている。
内容

ローマ法大全はあくまで当時の現行法の集大成である。したがって、古い書物を編集する際、古い時代の法が当時の情勢にそぐわなければ、当時の状況にみあったものにするため、修正・加筆(悪く言えば原文・原学説の改竄)が行われた。これを Interpolatio と呼ぶ。
東方における継続

「ビザンツ帝国」または「ビザンティン帝国」という用語は今日では、西方における帝国の崩壊にともなって、東地中海において残存したローマ帝国の東方部分を呼ぶために用いられている。この東方帝国ローマ法を利用し続けた。そもそもユスティニアヌス帝がローマ法を Corpus Juris Civilis(市民法大全) において形式化したのは、ローマ帝国の支配者としてであった。7世紀以降帝国政府の使用言語がラテン語からギリシア語に移行したために、市民法大全に基づく法典が時代が下ってギリシア語で編纂されることとなった。もっともよく知られているのは以下のものである:

エクロゲー法典(英語版)(740年)‐レオーン3世によって編纂された

プロキオン及びエパナゴゲ(879年頃)‐バシレイオス1世によって編纂された。更に

バシリカ法典(英語版)(9世紀後半)- バシレイオス1世によって開始され、レオーン6世によって完了した

バシリカ法典はユスティニアヌスの完全な縮約だった。60巻もあることで、裁判官や法律家には使い難いものだった。より短く手軽なものが必要とされていた。これは最終的に1345年にテッサロニキから来た裁判官のコンスタンティノス・ハルメノプーロス(英語版)によって作成された。彼は Hexabiblos(ヘクサビブロス)と呼ばれる、バシリカ法典を6冊にした短縮版を作った。これは広くバルカン半島中で、続くオスマン帝国時代の間にも利用され、1820年代のギリシャ第一共和政のための最初の法典として使われた。セルビアの法律と文化はローマとビザンツの基礎の上に打ち建てられた。最も重要なセルビアの法典は、ザコノプラヴィロ(英語版)(1219年)とドゥシャン法典(1349年と1354年)で、これらは、市民法大全に含まれるローマ-ビザンツ法を移植(英語版)したものだった。これらのセルビア法典はセルビア専制公国(英語版)が1459年にオスマン帝国に滅ぼされるまで利用された。セルビア蜂起でのオスマン朝からの解放後、1844年にセルビア市民法典が編纂されるまでローマ法が利用され続けた。セルビア市民法典は、市民法大全を基礎として編纂されたオーストリア民法典(英語版)の縮約版だった。
西方における復興Corpus Iuris Civilis, 1583.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "ローマ法大全" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2014年9月)

ユスティニアヌスの市民法大全は西方に配布され[15]、ラヴェンナ総督府を含むユスティニアヌスの再征服戦争のもとで獲得した領域で公布された。『法学提要』はローマの法律学校と、その学校がその後移転したラヴェンナでテキストとされたが、再征服されたその他の殆どの領域で失われた。南イタリアのイタリア総督領(英語版)のみビザンツ法の伝統を維持したが、市民法大全は、エクロガ法典(英語版)とバシリカ法典(英語版)にとって代わられた。市民法大全の条項は教会関係のものだけが効果があったが、それもカトリック教会の事実上の独立と東西教会の分裂で無意味となった。西欧では、市民法大全はゲルマン民族の継承諸国で多くのローマ・ゲルマン法を刺激したが、実際に用いられたのはテオドシウス法典であり市民法大全ではなかった。

歴史家たちは、市民法大全が1070年頃の北イタリアで発見されたということについては正確には一致していない。法律研究はグレゴリウス7世グレゴリウス改革の教皇庁に代わって行われていたが、グレゴリウス改革が再発見を偶然にもたらしたのかも知れない[要出典]。Littera Florentina(英語版)(フィレンツェ本)(アマルフィで保管されてきて、その後ピサに移った6世紀の『学説彙纂』の写本)とEpitome Codex(綱要:1050年頃に発見された市民法大全の多くを含んだ不完全な写本)とは別に、多くの写本がテキストとして、イルネリウスとペポ(英語版)により、ボローニャで教えられ始めた。[16]イルネリウスの技術は、声に出して読み、学生がそれを筆写することを許可されるというもので、ユスティニアヌスのテキストを解説し、内容に証明を与えることとはかけ離れていた。註解の形式について[要出典]イルネリウスの弟子であるボローニャの四博士(英語版)は中世ローマ法(英語版)のカリキュラムを打ち建てた最初の註釈学派に属していた。その伝統はウルトラモンタニズムとして知られるフランスの法律家にも伝わった。

中世イタリアのコムーネ(英語版)の商人階級は素朴なゲルマン的口承法よりも、正義の概念とともに扱う法と、都会に固有の状況を取り扱う法を必要としていた。法典の起源は、神聖ローマ帝国において、古典遺産からの由緒ある先例の復活を見る学者たちにアピールした。新しい階級の法律家たちが、ヨーロッパの諸公国で必要とされはじめていた官僚制を担った。ボローニャ大学はユスティニアヌス法典を最初に教え、中世盛期を通じて法律研究の中心であり続けた。

『学説彙纂』の二巻本が1549年と1550年にパリで出版され、タラゴサの僧侶アントニオ・アウグスティン(彼はよく知られた法律事務家だった)により翻訳された。『学説彙纂』完全版の題名は『Digestorum Seu Pandectarum tomus alter』といい、アプド・カルロマン・ジラルドス(Apud Carolam Guillards)によって出版された。『学説彙纂』の第一巻は2934頁あり、一方第二巻は2754頁だった。市民法大全としてユスティニアヌス法典を参名付けたのは16世紀のディオニシウス・ゴトフレドゥスで、1583年に出版された。市民法大全の背後にある法律的思考は現代のもっとも大きな法改革である、封建制の廃止を達成したナポレオン法典骨格となった。ナポレオンはこれらの諸原理がヨーロッパじゅうに紹介されることを望んでいた、なぜなら彼は、ヨーロッパの民衆の残りの部分と支配階級の間で、より平等な社会とより自由な関係が創出される支配の効果的形式として法典を見ていたのだった。

市民法大全は19世紀に仏語、独語、イタリア語、スペイン語に翻訳された。しかし市民法大全の英訳はサミュエル・パーソンズ・スコット(英語版)が彼のバージョン「市民法」を出版する1932年までなかった。スコットは最善のラテン語版を用いて翻訳を行ったのではないため、彼の業績は批判されている。[17] フレッド・ブルム(英語版)は彼の『勅法彙纂』と『新勅法』翻訳のために尊重されているラテン語版を用いた。[18]市民法大全の新しい英訳版はブルム訳に元付き2016年に出版された。[19]2018年には、ケンブリッジ大学出版もギリシア語のテキストを底本とした『新勅法』の新しい英語版を出版した。[20]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ガイウス版の法学提要はかなりの部分が失われている。

出典^ a b [ローマ法大全]『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典TBSブリタニカ
^ [ローマ法大全]『世界大百科事典平凡社
^ a b [ローマ法大全]『日本大百科全書小学館
^ a b c 尚樹1999、p.198。


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