妻は『マキちゃん日記』で知り合った女優の柴田美保子[1][3]。妹は放送作家の市川愉味子(井上愉味子)[4][5]。実質的なデビュー作は円谷プロ製作『快獣ブースカ』。代表作は『傷だらけの天使』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『コメットさん』『露玉の首飾り』『TAJOMARU』など多数。 実家の呉服屋を継がずに旧海軍大村航空隊の教官となった父と、寛政5年(1793年)創業の老舗の諫早名物おこし屋の娘であった母との間に1941年(昭和16年)誕生[6]。小さいころから創作活動が好きで、物語や絵画などジャンルを問わずに様々な創作を行って、級友を楽しませたり、地元の新聞に取り上げられたりしていた[6]。母親の実家の近所にあった映画館(後の諫早パルファン)によく映画を観に行っており、のちに脚本家を目指すきっかけともなっている[6]。ミッションスクールであった鎮西学院中等部に進学したが、高校は普通校の公立高校長崎県立諫早高等学校に進学、そののち[7]、日本大学藝術学部映画学科シナリオコース卒業[1][8][9]。 1966年(昭和41年)に円谷プロダクション製作の子供向け特撮番組『快獣ブースカ』第4話「ブースカ月へ行く」で脚本家デビューする[1][8][9]。その後しばらくの間は、子供番組を中心に執筆していた。『ウルトラセブン』『コメットさん』などは、この時期の代表作である。その後、当初メインライターを務めた『ウルトラマンA』を最後に一般向け番組に軸足を移し[1]、1974年、萩原健一、水谷豊出演のテレビドラマ『傷だらけの天使』(日本テレビ)で脚光を浴び、人気シナリオライターとなる[1][9]。 1979年(昭和54年)、舞台『黄金の日日』の戯曲により大谷竹次郎賞受賞。1981年(昭和56年)、『港町純情シネマ』などにより芸術選奨新人賞受賞[1]。1983年(昭和58年)、『淋しいのはお前だけじゃない』により第1回向田邦子賞受賞[1]。1989年(平成元年)、『異人たちとの夏』により日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞[1]。同年、『明日 - 1945年8月8日・長崎』『もどり橋』『伝言』により芸術選奨文部大臣賞受賞。1999年(平成11年)、『幽婚』によりモンテカルロ・テレビ祭最優秀脚本賞受賞。2003年(平成15年)に紫綬褒章受章。 脚本家としての活動のみならず、『ザ・ワイド』などワイドショー番組にコメンテーターとして出演するなど幅広く活動した[1]。なかでも長らく「日本アカデミー賞授賞式」のテレビ中継内では予想屋として出演。ことごとく外れる予想で知られた。 2000年(平成12年)、日本放送作家協会理事に就任[1]。2003年(平成15年)からは、日本脚本アーカイブズの発足に尽力した[1]。後に日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアムとして実現した。 2011年(平成23年)には旭日小綬章を受章[10]。その受章の際、内閣からの公式発表前にマスコミ各社が事前に行う記者取材が10月27日に予定されていたが、その日に急な発熱を起こして入院し、その際に受けた検査で肺がんが発見され、闘病生活に入っていたという[11]。 2011年(平成23年)12月10日、肺がんのため死去[2]。70歳没。戒名は祇承院弘庸森叡居士。14歳の時に日本基督教団諫早教会でキリスト教の洗礼を受けていた[12][13]が、本人の生前の希望により一族の菩提寺に埋葬された[14]。死後に故郷・長崎への思いを込めた市川の遺稿が妻により発表された[11]。 死後、福地茂雄を理事長として2012年10月25日に一般財団法人市川森一脚本賞財団が設立され、新進脚本家を対象とした「市川森一脚本賞
来歴・人物
諫早市立諫早図書館には市川の書籍、資料等を集めた「市川森一シナリオルーム」が存在する。
エピソード
キリスト教の信仰を持つに至ったのは、10歳で亡くした実母の入院先が長崎市内のカトリック系の病院だったことが契機とされている[18]。
プロテスタント信者であり、洗礼を受けたのは日本基督教団諫早教会であった[19]。
キリスト教による影響が随所に見受けられ、ウルトラシリーズの脚本では、新約聖書や神話に由来する名前を持つ怪獣や設定を多用したことでも知られる(サイモン、ペテロ、バラバ、ゴルゴダの丘→ゴルゴダ星、アイスキュロス→アイロス星人、マナ→フルハシ・マナ、プロメテウス→プロテ星人、サロメ→サロメ星人など)[18]。