市場
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市場は経済学上は価格形成の場として市場現象が把握される[1]。理論経済学でいう市場には二つの意味があり、第一に売り手と買い手が財とサービスを交換する一般的条件に関するもので、理論経済学上の完全競争、独占的競争、寡占独占などの概念はこの文脈で用いられる[5]。第二は市場の範囲の問題や地理的境界の問題をいう[5]

なお、経済人類学者のカール・ポランニーは市場を、場所、供給する人、需要する人、習慣または法、単一価格からなる市場諸要素の連合体と定義した[5]。ポランニーはバザールに並ぶ財には複数の価格があり近代的市場とは異なるとし、西欧で価格形成市場が展開するのは市場が目に見える形で出現してから2000年ほど後のことだったと指摘している[5]
商業学上の市場

市場は商業学上は市場現象のうち特に商品の流通を強調して把握される[1]。商業学では流通過程のどの段階に位置する市場かが最も重要な問題であり、経済学における価格形成上の特徴による分類を市場形式ないし形態(marketform)というのに対し、商業学における流通過程上の位置による分類を市場類型(type of market)という[1]

例えば、米国ではトムセンが農産物市場について、産地集荷加工市場、地区集中加工市場、中央・第一次ないし終点市場、沿岸市場、第二次加工市場、分散卸売市場、小売市場に分類している[1]

学術団体について、日本では、1951年4月21日、日本商業学会が慶應義塾大学教授向井鹿松を初代会長として設立された[6]
市場の歴史
起源

グリァスン沈黙交易の研究を通して、市場の成立について以下のような類型を示唆した[7]
姿を見せぬ交易(Invisible trade)

姿を見せる交易(Visible trade)

客人の招請(Guest friendship)

姿を見せる仲介者づきの交易(Middleman trade)

集積所(Depo)

中立的な交易

武装市場(Armed market)

定市場(Regular market)

グリァスンは、人間集団が平和に交流できる中立的な場所として市場を定義した。また、市場の存在によって特定の場所に平和が保存され、それが市場への路や人物にも広がることで、さらに平和の範囲が進展すると述べた[8]

カール・ポランニーは、市場制度が発達する起源として、対外市場と地域市場(対内市場)の二つをあげる。対外市場は貿易など共同体の外部からの財の獲得に関係し、地域市場は共同体での食料分配に関係する。地域市場は、さらに二つの形態に分かれる。第1は物資を中央に集めて分配する形態で、灌漑型の国家に顕著に見られる。第2は地域の食料を販売する形態で、古代ギリシアの小農経済や叢林型経済に顕著なものとなる[9]
古代メソポタミア・西アジア

シュメールバビロニアでは食物をはじめとする必需品を貯蔵し、宮殿や都市の門において分配した。またペルシア語のバザールにあたる市場では手工業品の販売を行なった。地域市場とは別に対外用の貿易が行なわれていたが、対外市場は存在しなかった。このためキュロス2世ギリシア人の市場制度を理解せず、非難した[9]。やがて灌漑型国家の分配制度が衰えてイスラームの商業が浸透すると、バザールは地域の食料市場も兼ねるようになった。
古代ギリシア・ローマ

古代ギリシアのポリスにおいては、集会に用いる広場であるアゴラが市場としても用いられた。地域市場と対外市場が分かれており、地域市場にはアゴラ、対外市場にはエンポリウムが存在した。エンポリウムでは遠征した軍隊のために補給や戦利品の処分も行なった。メソポタミアエジプトのように広大な灌漑農地を持たないギリシアは穀物確保が重要であり、価格が変動する初の国際市場として、アレクサンドロス3世の家臣であるナウクラティスのクレオメネスが運営した穀物市場も存在した[9]古代ローマギリシアのアゴラの制度をフォルムとして引き継ぎ、エンポリウムは商品を積み替える場所の名称としても用いた。
中国

の時代に市制の整備が進み、商業は厳しく管理された。市籍に登録された者が取引を行い、市籍人は商品の種類ごとに区画が決められて「行」という同業組合に属するよう定められてしまった。長安では東西、洛陽では南北西に市が置かれており、各地からの行商人は市籍人を通じて取引を行った。貿易が行われる都市には市令・市丞という役人がいた。統制が緩むにつれて往来の多い地域に墟市(草市)という市場も開かれて日用品を扱うようになった。その他に、経済的要地を守る「」という軍のもとに発展した鎮市、寺院の前に開かれる廟市などがあった。
イスラーム王朝

アラビア語スークペルシア語でバザールと呼ぶ市場が開かれた。当初はキャラバンの到着などに合わせて市が開くたびに店舗を設置していたが、やがて常設店舗が現れた。アッバース朝の都市では新月の日に定期市が開かれ、これに祭礼ごとの市も加わり、多様な市場によって商業が盛んになった。大都市では各地の商人が集まる大市場と街区の小市場に分かれ、小売商は職種ごとに同じ地区で店を開いた。市場の治安を維持するためにムフタシブと呼ばれる監督官が不正を取り締まった。
中世ヨーロッパ

ローマ帝国以来の諸都市や、城、修道院で市が開かれ、北ヨーロッパにはヴィクと呼ばれる交易地があった。イングランドをはじめ北ヨーロッパではマーケットタウンが建設され、地域の市場が開かれた。定期市としてはサン=ドニ修道院の市やスターブリッジの市などの国際的な年市や、十人組の民会にともなう週市などが存在した。十字軍以降は南北の交流が盛んになり、中でもシャンパーニュの大市は大規模なものだった[10]近世の市場の情景。Joachim Beuckelaer作、1566年

西ヨーロッパでは初期の市場は修道院、城、王宮の近くで発展した。修道院や貴族は、モノとサービスの両方に対するかなりの需要を――奢侈品も必需品も――生み出し、商人や仲介業者にもある程度の保護を提供した。これらの交易の中心地は売り手を引き付けた。1086年のドゥームズデイ・ブックには、イングランドの50の市場が記載されているが、多くの歴史家は、この数字が当時の実際の市場の数よりも過小だと考えている。イングランドでは、1200年から1349年の間に約2,000の新しい市場が設立された[11]。1516年、イングランドには約2,464の市場と2,767の見本市があり、ウェールズには138の市場と166の見本市があった[12]

12世紀から、イングランド王は、町や村の市場や見本市を設立するため、地元の領主に特許状を与えた。特許状は年貢と引き替えに町の取引の特権を認めた。特定の開催日を特許された市場があると、近隣のライバルの市場は同じ日には開催できなかった[13]

見本市(フェア)は普通は年次開催であり、概ね地域の祭典と関連していた[14]。見本市は高価な商品を扱い、一方、毎週または隔週で開催される市場は生鮮品や必需品を主に扱っていた[15]。見本市の主な目的は交易だったが、通常はダンスや音楽や試合(トーナメント)といった娯楽要素も含まれていた。市場の数が増え、開催される町同士は競合をされるためにある程度の距離をとっていたが、それでも地元の生産者が概ね日帰りできる程度の距離(約10キロメートル)のものだった[16]

一部の英国の野外市場は、12世紀から継続的に開催されているものもある。
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