市場
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第2は地域の食料を販売する形態で、古代ギリシアの小農経済や叢林型経済に顕著なものとなる[9]
古代メソポタミア・西アジア

シュメールバビロニアでは食物をはじめとする必需品を貯蔵し、宮殿や都市の門において分配した。またペルシア語のバザールにあたる市場では手工業品の販売を行なった。地域市場とは別に対外用の貿易が行なわれていたが、対外市場は存在しなかった。このためキュロス2世ギリシア人の市場制度を理解せず、非難した[9]。やがて灌漑型国家の分配制度が衰えてイスラームの商業が浸透すると、バザールは地域の食料市場も兼ねるようになった。
古代ギリシア・ローマ

古代ギリシアのポリスにおいては、集会に用いる広場であるアゴラが市場としても用いられた。地域市場と対外市場が分かれており、地域市場にはアゴラ、対外市場にはエンポリウムが存在した。エンポリウムでは遠征した軍隊のために補給や戦利品の処分も行なった。メソポタミアエジプトのように広大な灌漑農地を持たないギリシアは穀物確保が重要であり、価格が変動する初の国際市場として、アレクサンドロス3世の家臣であるナウクラティスのクレオメネスが運営した穀物市場も存在した[9]古代ローマギリシアのアゴラの制度をフォルムとして引き継ぎ、エンポリウムは商品を積み替える場所の名称としても用いた。
中国

の時代に市制の整備が進み、商業は厳しく管理された。市籍に登録された者が取引を行い、市籍人は商品の種類ごとに区画が決められて「行」という同業組合に属するよう定められてしまった。長安では東西、洛陽では南北西に市が置かれており、各地からの行商人は市籍人を通じて取引を行った。貿易が行われる都市には市令・市丞という役人がいた。統制が緩むにつれて往来の多い地域に墟市(草市)という市場も開かれて日用品を扱うようになった。その他に、経済的要地を守る「」という軍のもとに発展した鎮市、寺院の前に開かれる廟市などがあった。
イスラーム王朝

アラビア語スークペルシア語でバザールと呼ぶ市場が開かれた。当初はキャラバンの到着などに合わせて市が開くたびに店舗を設置していたが、やがて常設店舗が現れた。アッバース朝の都市では新月の日に定期市が開かれ、これに祭礼ごとの市も加わり、多様な市場によって商業が盛んになった。大都市では各地の商人が集まる大市場と街区の小市場に分かれ、小売商は職種ごとに同じ地区で店を開いた。市場の治安を維持するためにムフタシブと呼ばれる監督官が不正を取り締まった。
中世ヨーロッパ

ローマ帝国以来の諸都市や、城、修道院で市が開かれ、北ヨーロッパにはヴィクと呼ばれる交易地があった。イングランドをはじめ北ヨーロッパではマーケットタウンが建設され、地域の市場が開かれた。定期市としてはサン=ドニ修道院の市やスターブリッジの市などの国際的な年市や、十人組の民会にともなう週市などが存在した。十字軍以降は南北の交流が盛んになり、中でもシャンパーニュの大市は大規模なものだった[10]近世の市場の情景。Joachim Beuckelaer作、1566年

西ヨーロッパでは初期の市場は修道院、城、王宮の近くで発展した。修道院や貴族は、モノとサービスの両方に対するかなりの需要を――奢侈品も必需品も――生み出し、商人や仲介業者にもある程度の保護を提供した。これらの交易の中心地は売り手を引き付けた。1086年のドゥームズデイ・ブックには、イングランドの50の市場が記載されているが、多くの歴史家は、この数字が当時の実際の市場の数よりも過小だと考えている。イングランドでは、1200年から1349年の間に約2,000の新しい市場が設立された[11]。1516年、イングランドには約2,464の市場と2,767の見本市があり、ウェールズには138の市場と166の見本市があった[12]

12世紀から、イングランド王は、町や村の市場や見本市を設立するため、地元の領主に特許状を与えた。特許状は年貢と引き替えに町の取引の特権を認めた。特定の開催日を特許された市場があると、近隣のライバルの市場は同じ日には開催できなかった[13]

見本市(フェア)は普通は年次開催であり、概ね地域の祭典と関連していた[14]。見本市は高価な商品を扱い、一方、毎週または隔週で開催される市場は生鮮品や必需品を主に扱っていた[15]。見本市の主な目的は交易だったが、通常はダンスや音楽や試合(トーナメント)といった娯楽要素も含まれていた。市場の数が増え、開催される町同士は競合をされるためにある程度の距離をとっていたが、それでも地元の生産者が概ね日帰りできる程度の距離(約10キロメートル)のものだった[16]

一部の英国の野外市場は、12世紀から継続的に開催されているものもある。
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出典検索?: "市場" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年11月)
大漁旗が立ち並ぶ師走魚の棚兵庫県明石市

日本では7世紀には、飛鳥海石榴市(つばいち)や軽市、河内の餌香市(えがのいち)や阿斗桑市(あとのくわのいち)などに一種の統制市場があったことが『日本書紀』の記述からわかる。また『風土記』からは、常陸国高浜出雲国促戸渡のような漁民や農民が往来する場所や交通の要所で貨幣発行以前から市が成立していたことがわかる。

古代国家においては、中国の制度を参考にしつつ、大宝律令の関市令によって市制を整備した。には東西市が設置されて市司という監督官庁が置かれ、藤原京平城京難波京長岡京平安京などに官営の東西市が運営された。この統制市場は正午に開き、日没に閉じ、品物の価格は市司が決定した。また商業施設だけではなく、功のある者を表彰したり、罪を犯した者を公開で罰する場所としても使用された。当初は特定区域外での商業は禁じられていたが、律令制の弛緩とともに交通の要所など人が集まる場所に定期市が形成されるようになった。近畿地方を中心として荘園では地方市場が生まれ、行商人が活動した。定期市の立つ日(市日)としては「八の日」が多く、「三斎市」(さんさいいち)が多い。市日が「八の日」であれば、8・18・28日に市が立つ。市を開く時間によって、朝市・夜見世・夜市・夕市などと呼ばれた。15-16世紀には、月6回の「六斎市」が生まれる。日本でも最も南方に位置する石垣市公設市場

古い市としては、五城目(秋田県南秋田郡)、横手(秋田県横手市)、温海(あつみ、山形県西田川郡)、陸前高田(岩手県陸前高田市)、大多喜(千葉県いすみ市)、勝浦(千葉県勝浦市)、高山(岐阜県高山市)、輪島(石川県輪島市)、珠洲(すず、石川県珠洲市)、越前大野(福井県大野市)などが江戸時代まで遡る。また、三重県四日市市や旧・滋賀県八日市市(現東近江市)、広島県廿日市市、旧・千葉県八日市場市(現匝瑳市)などの名称に昔の名残がみえる。


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