巨石文化
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たとえばカルナック列石においては、それらの列石群は聖コルネリウスによって石へ変えられたローマの兵士であるとか、カエサルの軍営の跡地だなどと言われていたし、フランソワ・ラブレーパンダグリュエルの中で巨石記念物を巨人と結び付けている[1]。科学的な研究が始まったのは17世紀ごろのことで、イギリスではジェームズ1世治下でイニゴ・ジョーンズが、チャールズ2世治下でジョン・オーブリーストーンヘンジの調査を行い[2]、特に後者はオーブリー穴と呼ばれる遺構を発見したことで有名である。フランスにおいてはノルマンディー貴族コシュレルによってドルメンの発掘が行われ、それが墓所であることが確認されている。しかしながら18世紀から19世紀にかけては欧州を席巻したケルト文化ブームの影響もあって、これら巨石記念物はケルト人とりわけドルイドによる宗教施設だというロマン的な見方も流行した。一方、より科学的な人々はこうした建造物をオリエントの進んだ文明、ピラミッドを建てたエジプト文明などの影響によるものと分析した。こうした見解を根本から覆したのが20世紀に発明された放射性炭素年代測定で、この技術によれば巨石記念物の多くは、ケルト人はおろか、ピラミッドすら建っていない紀元前4000年から3500年ごろに着工されたものであると判明した。[3]こうしてこれらは現在おおよそ新石器時代のものであるとみなされている。ヨーロッパにおける巨石文化の担い手は、ハプログループG2a (Y染色体)と考えられる[4][5]
主な種類

G・ダニエル (Glyn Daniel) などの分類に基づく。多くの形態が複合されていることも多い。ヨーロッパでは、大西洋岸・ケルト地域に多く分布し、ケルト人の遺跡と誤解されることがあるが、ケルト以前の先住民による遺物であり、ケルト人との関係は無い。

立石メンヒル(単一のもの)


立石群

環状列石

単一の輪を持つもの

ストーン・サークル Stone circle、ストーン・リング stone ring、クロムレック cromlech (何重もの構造を持ったり、のあるもの)


列石、アリニュマン alignement(線上列石)



巨石墓

ドルメン dolmen、支石墓

石室墓

通廊墓、ギャラリー墓 gallery grave

羨道墳(パッセージ・グレーヴ,passage)




巨石神殿(特にマルタのもの)

意義

農耕儀礼、太陽崇拝天文台説などがある。
現代の巨石文化

東南アジアで、現在も首長の地位を高めるために祭りの一環として建立が行われることがある。
脚注^ ルブタン 91,157p
^ パトゥリ 196p
^ 日本テレビ 26p
^Eupedia1
^Eupedia2

関連項目

大湯環状列石

伊勢堂岱遺跡

モアイ像

鹿石

記念物

モノリス

参考文献

日本テレビ『巨石文明の謎』読売新聞社 1981

カトリーヌ・ルブタン著/南条郁子訳『ヨーロッパの始まり』創元社 1994

ジャン=ピエール・モエン著/蔵持不三也訳『巨石文化の謎』創元社 2007

グリン・ダニエル著/近藤義郎訳『メガリス 西欧の巨石墓』学生社 1976

八幡一郎、田村晃一編『アジアの巨石文化』六興出版 1990

江上波夫著『先史時代のヨーロッパ』福武書店 1984

フェリックス・R・パトゥリ/中島俊哉『ヨーロッパ先史文明の謎』祐学社 1982

典拠管理データベース
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