巨勢徳多
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白雉2年(651年)に新羅の使者が倭国日本)訪れた際に、新羅がに臣従して制度も唐制に改めたと知って追い返すという事件が起きているが、その際に新羅と唐が結ぶことを危惧した徳多は先に新羅を攻めるように進言したが、採用されなかった[6]。だが、徳多の死後に倭国は白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗れる事になる。

斉明天皇4年(658年)1月13日左大臣在任中に病没した。冠位大?であったことが子孫の薨伝で知られる[7]。『公卿補任』では没年齢を66歳としているが、大化5年(649年)時には50歳としており、矛盾している[8]
脚注^ 『日本書紀』皇極天皇元年12月13日条
^ 『日本書紀』皇極天皇二年11月1日条
^ 『日本書紀』皇極天皇4年6月12日条
^ 『日本書紀』大化元年7月10日条
^ 『日本書紀』大化5年4月20日条
^ 『日本書紀』白雉2年条
^続日本紀神亀元年6月6日条など
^ 『朝日日本歴史人物事典』

参考文献

宇治谷孟『日本書紀 (下)』講談社講談社学術文庫〉、1988年

宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年

太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年

公職
先代
阿倍内麻呂左大臣
649 - 658次代
蘇我赤兄


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