左翼・右翼
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伝統的には、左翼には進歩主義社会自由主義社会民主主義社会主義共産主義アナキズムなどが含まれ[4][5][6][7] 、右翼には保守主義、反動主義、王党派国家主義ファシズムなどが含まれるが、西側諸国の勝利に終わった20世紀後半の冷戦終結を受けて、戦間期に存在した立憲君主制及び多党制民主主義体制に復帰する国が増えたソビエト連邦崩壊後の現在社会において、左翼(革新派)と右翼(保守派)の定義は曖昧となり、さらにはかつて鉄のカーテンによって封鎖されていたソビエト共産党体制の内実が明らかになるにつれ、社会主義及び共産主義運動の思想的再定義に直面した思想史研究者を中心として、冷戦時代には極右体制の代名詞として規定される事が多かったファシズム全体主義)を、ムッソリーニなどに代表されるその思想的源流から客観的に考察するという側面から広義の左翼(極左)の一種であると再規定される事も多くなっている[8]

「左」や「右」の用語は、単純な説明だけではなく、特定の視点でも使われる。現代の政治的な用法では、「左」は典型的には労働者への支援を主張し、「右」による上流階級の利益への支援を批判する。他方、「右」は典型的には個人主義(経済的な自由主義)への支持を主張し、「左」による集産主義への支援を批判する。

しかしこの用語を使用した論争は、何を「左」や「右」と呼ぶかという意味を離れて、しばしば感情的な偏見や先入観が発生し、論点を変えてしまっている[9] 。このため複数軸によるノーラン・チャートなどの政治的スペクトルの分析・分類も使用されている。
用語の歴史
フランス革命

「左翼・右翼」の用語は、フランス革命時の議会の座席に由来する。正確には1789年9月11日からの数年間、勢力は情勢に応じて激しく入れ替わったが、「議長席から見て左側には常に急進派、右側には常に保守派が座る」というルールは定着して変わらず、その後200年に渡って世界の各国で繰り返されるパターンがこの数年で出尽くしたため、一種の普遍的なモデル性を帯び、「左翼・右翼」が普遍的な用語として定着した[10]

フランス革命では、絶対王政批判から、立憲主義 = 自由主義へ、更に進んで民主主義へ、そのまた先の社会的民主主義へ、更にかなたに社会主義共産主義を目指すという形で、従来は先進的で主流な立場を次々と古いものと化しつつ進展した。この図式がフランス以外の諸国も同じような道筋で変革されていくとの予感が、ヨーロッパの知識人に共有されていった[11]。また「左翼」に一貫した思想は「自由」より「平等」で、進歩に逆行する動きは「反動」と呼ばれるようになった。

フランス革命時の議会の座席(議長席から見て)[12]左側(左翼)中央右側(右翼)備考
1789-1790 制憲議会ジャコバン派(民主派)ジャコバン派(立憲派)王党派急進派が左、保守派が右に座った
1790-1792 立法議会(ジャコバン派)民主派フイヤン派(旧立憲派)王党派が消滅し、立憲派が右に移動した
1792-1793 国民公会山岳派(経済的平等)平原派ジロンド派経済的自由主義)フイヤン派が消滅、民主派が三派に分裂、経済的自由主義が右に移動した
1793-1794 国民公会山岳派(実権掌握)平原派ジロンド派が追放、議会外に「過激派」やバブーフ派(極左)
1794-1799 国民公会平原派(山岳派残党 - 王党派残党)テルミドールの反動で山岳派指導者が消失

1789年9月11日、フランス初の憲法を制定する議会(制憲議会)で、急進派(議会の議決に国王の拒否権を認めず、一院制を主張)は議長から見て左側(左翼)に集まり、王党派(国王の拒否権を認め、庶民院貴族院二院制を主張)は右側(右翼)に集まり、中間派(国王に延期権は認めるなど)は中間に座った。二院制はイギリス式で貴族と僧侶を特別な身分として存続させるが、一院制は特権身分を全否定して、貴族や僧侶出身の議員も平民出身議員と対等な国民代表となる。結局、1791年に制定された憲法は、国王は議会の議決を2年から6年間延期でき、議会は一院制となった。この段階では、「最右翼」は絶対王政死守、貴族・僧侶の特権も守るとの王党派で、「最左派」は普通選挙による人民議会に全権を持たせ、国王はその決定をそのまま執行するのみとの「民主派」であったが、憲法制定の主導権を握ったのは中間派の中の「左派、立憲派」(立憲主義者、自由主義者)で、立憲議会議員の選挙権は一定以上の財産を有する資産家のみの制限選挙であり、「自由主義」ではあるが「民主主義」ではなかった[13]

1791年憲法下の立憲議会では、王党派(右翼)や旧穏健派(中央右派)は引退・逮捕・亡命などで消滅したため、旧中央左派のフイヤン派(ジャコバン派から分離した自由主義者)が新保守派として右側に座った。左側の「民主派」は、「自由主義」だけではなく「民主主義」も要求した[14]

1792年、立法議会は事実上機能を停止し、新たに男子普通選挙で選ばれた国民公会では、従来の保守派であったフイヤン派は逃亡・転向・棄権などで勢力を失い、従来は急進派であった「民主派」(1791年の憲法に反対、男子普通選挙、王政廃止・共和制などを主張)が議会全体を占めた。


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