工部省
掌奨勧百工、及鉱山・製鉄・燈明台・鉄道・伝信機等
民部省ノ事務ヲ分ケ工部省ヲ置ク—工部省ヲ置ク (明治3年閏10月20日)[2]
しかし、部局の組織化には10ヶ月を要し、明治4年8月14日になって鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台、製作、工学、勧工、土木の10寮と測量の1司が発足した[1]。工学寮と測量司を除くと、他のほとんどは民部省からの移管であった。モレルは公共事業を主管する部局を意図していたのに対して、太政官内では海外から産業技術を導入し殖産興業を推し進める部局として認識された[4]。
1871年、伊藤が岩倉使節団の副使として外遊にでかけたため、工部少輔の山尾が初期工部省をまとめ、盛り上げていった。しかし、大久保利通が内務省を発足させると、地域開発に結びつく殖産興業はそちらに移管され、また国家財政の逼迫から官主導の殖産興業事業は民間へ払い下げられていった。
1880年代前半には、工部卿佐々木高行の下で、鉄道・電信などを除き官営工場の民間への払下げが進められた(官営事業払下げ)。1883年9月22日、工作局・鉱山局を廃止し、その事務を省の直轄とする。品川工作分局は品川硝子製造所、兵庫・長崎工作分局はそれぞれ兵庫・長崎造船局、各地鉱山分局はそれぞれ佐渡・生野・三池・阿仁・院内鉱山局と改称した。 明治18年(1885年)12月22日、内閣制度とともに工部省は廃止されて、逓信省と農商務省に分割・統合された[3]。なお、鉄道事業は内閣直属になり(鉄道局及び鉄道省を参照)、電信・灯台などの事業は逓信省に引き継がれ、郵便と一体化された[3]。 今般逓信省を置き駅逓電信燈台管舩の事務を管理せしむ。工部省を廃し鉱山工作の事務は農商務省に電信電燈の事務は逓信省に工部大学校は文部省に属せしめ鉄道事務は当分の内内閣直轄に属せしむ—太政官達第七十号 工部省を廃し逓信省を置き工部大学校を文部省に鉱山及工作事務を農商務省に属す(明治18年12月22日)[3] 工部省は工学寮という技術者養成機関を持ち、工学校を運営した。1873年7月、当初は予備教育のための小学校も予定されていたが、工学校都険(実質的校長)に就任したヘンリー・ダイアーは6年制の大学校のみとする学則を定めた。明治9(1876)年には工部美術大学校 1885年に工部省の廃止が決まり、工部大学校は文部省に移管され[3]、翌明治19年(1886年)の帝国大学令により帝国大学工科大学になった。これは現在の東京大学工学部にあたる。 工部卿代氏名在職期間略歴
後継
教育機関
工部卿など
ー空席 ーー
1伊藤博文1873年 - 1878年内閣総理大臣、枢密院議長
2井上馨1878年 - 1879年外務大臣、大蔵大臣
3山田顕義1879年 - 1880年司法大臣
4山尾庸三1880年 - 1881年
5佐々木高行1881年 - 1885年
工部大輔
1後藤象二郎1871年大阪府知事
2伊藤博文1871年 - 1873年
山尾庸三1872年 - 1880年
3
4吉井友実1880年 - 1882年元老院議官
5井上勝1882年 - 1886年
出典[脚注の使い方]^ a b 太政官『工部省中諸寮司ヲ置ク』国立公文書館デジタルアーカイブ、1871年8月14日。太00240100。https://www.digital.archives.go.jp/item/1387191
^ a b c d e f 太政官『工部省ヲ置ク』国立公文書館デジタルアーカイブ、明治3年10月20日。太00019100。https://www.digital.archives.go.jp/item/1338694
^ a b c d e f 内閣『太政官達第七十号』国立公文書館デジタルアーカイブ、1885年12月22日。