工部大学校
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時計塔も含め、グラスゴーの建築家キャンベル・ダグラス (Campbell Douglas) は、マクヴェインへ技術的助言、資材の発送、若手建築家の紹介など、様々な便宜を提供した。ダグラスの推薦で来日した若手の建築家チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィル (Charles Alfred Chastel de Boinville) [8]は、1872年末に着任して小学校校舎と生徒館の施工管理を行い、さらに教師館は新しく設計し直した。マクヴェインが1873年4月に一時帰国する際、工部省営繕をトーマス・ウォートルス (Thomas James Waters) に委任、大学校本館の設計はウォートルスのもとで始まった。しかし、1873年6月にイギリスから教師団が到着するとともに、設計はボアンヴィルの手に移り、彼は都検ダイアーや物理学教授ウィリアム・エドワード・エアトンらと綿密に相談しながら設計案を固めていった。現在では科学技術教育に実験、実演、実技、実習は必須であるが、1870年代当時、そのためにどのような施設設計が必要かは世界共通の課題だった。1877年に工部大学校校舎(本館)が完成すると、イギリス人建築家のエドワード・ロビンス (Edward Cookworthy Robins) [9]ロイヤル・ソサエティ王立英国建築家協会の集会で最も先進的な科学技術教育施設として紹介し、科学技術教育用施設建築の設計手本とされた[10]。エアトンは工部大学校設計図一式を持ち帰り、旧知のロビンスとともにロンドン&ギルド工学校 (City and Guilds of London Institute) の校舎設計を始めた。

校舎は同校が東京大学と合併・移転後、学習院東京女学館の校舎として利用されたが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊した。文部省が同地に置かれるのはそれ以降のことである。
沿革

1870年(明治3年) - 鉄道技師長エドモンド・モレル伊藤博文に日本が工業発展を円滑に進めるために工部省を設置することを提案し、日本人技術者を養成するための教務部を併設することを主張した。この教務部の工学校はスクールとカレッジからなり、スクールで優秀な成績をおさめた生徒だけがカレッジに進学することができるとした。

1871年(明治4年) - 工部省に工学寮が設置され、基礎教育を行う小学校と専門教育を行う大学校の二校体制とし、まずは小学校の1872年9月開校を企図し、1871年末から小学校教師の任用と校舎建設を始めた。

1873年(明治6年) - 都険として就任したダイアーは大学校のみの一校体制とし、1873年11月に開校。入学者の学力がそろわないために、予備教育のための小学校を一時期併設した。

1876年(明治9年) - 附属機関として工部美術学校を設置。

1877年(明治10年) - 専門教育のための本館が完成し、1月11日工学寮が廃止され工作局所轄になると工部大学校に改称。

1878年(明治11年) - 第一期卒業生を送り出すにあたり、7月15日に明治天皇親臨のもと「開業式」を執行(いわゆる開校式ではない)[11]

1885年(明治18年) - 工部省廃止に伴い文部省に移管。

1886年(明治19年) - 帝国大学令により東京大学工芸学部と合併、'帝国大学工科大学'となった。
以降の歴史については東京大学#沿革も参照のこと。
工部大学校の教授

<外国人教員>

ヘンリー・ダイアー (Henry Dyer) 

チャールズ・ディキンソン・ウェスト (Charles Dickinson West) [12]

ジョン・ミルン (John Milne) [13]

ウィリアム・エドワード・エアトン (William Edward Ayrton) 

ジョン・ペリー (John Perry (engineer)) [14]

ジョサイア・コンドル (Josiah Conder) 

ウィリアム・グレイ・ディキソン (William Gray Dixon) 

エドマンド・モンディ(Edmund F. Mondy)

ディヴィッド・ヘンリー・マーシャル (David Henry Marshall) 

エドワード・ダイヴァース (Edward Divers) 

リチャード・ライマー=ジョンズ (Richard Rymer Jones) 

ジョージ・コーレイ (George Cawley) 

主な卒業生
土木

石橋絢彦 - 土木科第1期生。1880年(明治13年)イギリスに留学し、海上工事(灯台建設など)を学ぶ。帰国後、工部省や神奈川県で灯台建設などに従事。1910年(明治43年)当校の校長(第4代)に就任。横浜市の吉田橋を改修。1911年に日本最初のカーン式鉄筋コンクリート橋を完成させた[15]

南清 - 土木科第1期生で、主に鉄道分野で活躍。技術のほか鉄道会社経営にも参画。

杉山輯吉 - 土木科第1期生で、台湾で建設事業に従事。日本工学会[16]設立者。

田辺朔郎 - 土木科第5期生。琵琶湖疏水工事を担当、京都蹴上(けあげ。京都東部の山麓部)に日本最初の水力発電所を併設し事業化。東大教授・京都帝大教授となり、「京都市の3大事業」と呼ばれた琵琶湖第2疏水・水道・市電設置という事業に参画。関門海底トンネルの踏測にも従事。東大工科大学長にも。また北海道で鉄道建設にもあたった。

渡邊嘉一 - 土木科第5期生。スコットランドのフォース橋の建設監督をし、帰国後は鉄道建設にあたる。

久米民之助 - 土木科第6期生。皇居二重橋構造設計のほか鉄道トンネル開削など。また実業家として外地台湾や朝鮮半島で建設事業にあたる。さらに衆議院議員に。

造家(建築)

辰野金吾 - 造家学科第1期生。日本人として最初期の建築家。1873年に工部省工学寮第一回生として再試験で末席入学。最初は造船を学んでいたが、2年終了後、造船から造家(建築)に転じ、ジョサイア・コンドルに師事し、1879年に工部大学校造家学科第1期生として卒業。イギリスに留学し、コンドルの師、ウィリアム・バージェズの事務所で修業。1883年帰国後はコンドルの後任として当校の教授を務め、東京帝国大学工科大学教授、同学長として建築教育に専念。1886年造家学会 (現日本建築学会) 創立に参加。のちに同学会会長。 1902年退職後は建築事務所を設立、多くの建築設計に従事[17]

曽禰達蔵 - 造家学科第1期生。辰野金吾と同郷で同級生。建築家として活躍。

片山東熊 - 造家学科第1期生。宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わり、職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わった。また公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。代表作は迎賓館など。

佐立七次郎 - 造家学科第1期生。建築家として活躍。代表作は旧日本郵船小樽支店、日本水準原点標庫など。

藤本寿吉(壽吉) - 造家学科第2期生。建築家として活躍。福沢諭吉の甥で、代表作に慶應義塾演説場、箱根離宮、旧文部省庁舎など。

渡辺譲 - 造家学科第2期生。建築家として活躍。代表作は初代帝国ホテル、海軍資料館など。

坂本復経 - 造家学科第3期生。建築家として活躍。代表作は旧鍋島公爵邸など。

小原益知 - 造家学科第3期生。滋賀県の嘱託建築家として、琵琶湖疏水諸施設のデザインに協力する。

久留正道 - 造家学科第3期生。建築家として活躍。


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