工藤公康
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^ 『中日新聞』 (1981) は天白区高坂町出身と報道している[18]
^ 小中学校の1年先輩には佐藤啓中京テレビアナウンサー)が[20]、2年後輩には紀藤真琴中京高校から1983年のドラフト会議広島から3位指名 / 広島・中日楽天)がいる[21]
^ 『週刊朝日』 (2011) は「公康の父は、息子がプロ入りした際の契約金で名古屋に自宅を建てたが、後にその家を売り払って帰郷した」と述べている[24]
^ 公康は後年に「自分だけでなく、兄たちも父親に強制的に野球を教えられていたが、最終的には野球が嫌いになって辞めていった」と述べている[33]
^ 後に投球フォームは江夏豊を参考にしたと語っている[36]
^ 上2人の兄は私立高校に入学したが、公康の時点では公立高校でなければ経済的に進学は困難だった[42]。しかし公康は当時、公立高校へ進学できる程度の学力を有していなかった[42]
^ ベースボール・マガジン社 (1987) によれば、最初に享栄高校から勧誘され、次いで名古屋電気高校からも勧誘された[1]。また同じ名古屋市にあった中京高校(現:中京大中京高校)に兄が通学しており[34]、工藤自身は中京からの勧誘を待っていたが、結局は中京からは勧誘されなかった[1](工藤の父は、中京からの勧誘が来た時点では既に名電入学の話が進んでいたため断ったと述べている)[34]。工藤の父親によれば、工藤は自身とともにある高校の野球部監督と寿司屋で会合した際、監督から言われるがままに寿司を食べた(一時は遠慮したが「野球選手がたくさん食えんでどうする」とさらに勧められた)ところ、監督を「オレの前で寿司を食ったヤツは、オマエが初めてだ!」と憤慨させてしまい、その件が原因で同校への進学は見送ることになったと述べている[34]
^ 山本は中学時代から県下一の捕手として知られており、中村は山本を活かす投手を探していたところ、工藤に目をつけた[45]
^ 高校時代、槙原との直接対決はこれが唯一だった[48]
^ 選手権大会としては8年ぶり[53]
^ 当時、大会史上3位タイ[55]。このうち、9回までに奪った三振は16で、この試合で与えた四死球はゼロだった[53]
^ 同年のドラフト会議では社会人野球に好投手がいたため、(1巡目入札で)1位指名される可能性がある高校生はこの3人のみと予想されていた[58]
^ a b なお、槙原はドラフト会議前に「希望する球団は(地元の)中日、その次は在京のセ・リーグ球団。それ以外ならセ・リーグならどこでも」と表明していた[82]
^ 複数球団の競合が予想されていたが[62]、本人は広島入りを強く希望し、広島や大洋・阪神以外の球団への入団は拒否する意向を表明していた[63]。結局、広島が単独1位指名[64]
^ 工藤は同年の国体終了後に「セ・リーグに入りたい。できれば小さいころからファンだった巨人がいい」「パ・リーグに指名されたら熊谷組に就職する」と表明していた[55]
^ 実際に西武との入団交渉に入ったところ、工藤の父が態度を軟化させたことについては、「(西武が)他球団に指名させないために芝居を打たせた」と指摘する声が上がり、ヤクルトスワローズのスカウトは「バカバカしい」とコメントしていた[60]
^ 熊谷組は当時、「工藤は我が社に入社する約束をしており、二重契約ではないか」と反発していた[60]。また当時は「(工藤が西武に入団すると)父は名古屋市交通局に勤めづらくなるので、西武系企業に転職するのではないか」と噂されたり、「熊谷組に入社すれば3年後に中日に入団させる」という密約があったとまことしやかに伝えられたりしたことで、工藤家は地元ファンからの嫌がらせを受け、電話番号を変えることを余儀なくされた[69]
^ 名電高校の校長・後藤淳は野球部監督・中村豪とともに「学校に相談せず、熊谷組への就職を反故にして西武から契約金を受け取り、入団を決めた工藤の行動は遺憾だ。企業の信頼を裏切る結果になった」との態度を表明していたが、工藤のプロ入りについては「学校が決めるものではない」としていた[73]。結局、後藤校長は熊谷組から入社内定取り消しの連絡を受け、工藤の父に対し「名電OBとして、プロに入っても恥ずかしくないよう頑張るように」と答えたほか、この件で高校側から工藤にペナルティが課されることはなかった[74]。ただし、工藤は(この件とは別に)父親の意向で学校の許可なく指定外の自動車教習所に通っていたことが発覚し、校則違反のペナルティとして、停学と丸坊主にさせられた[60][75]
^ 最終的に入団拒否[86]。翌1982年度のドラフト会議で阪神タイガースから5位指名を受け入団[87]
^ ただし、広岡は自著 (2016) で「工藤を『坊や』と呼んではいたが、特別扱いしたわけではなく、自分のそばに置いて私生活も野球も厳しく鍛えていた」と述べている[90]
^ 19歳でのプレーオフ勝利投手は2021年現在まで史上最年少
^ キップ・グロス(日本ハム)の17勝、西口文也(西武)の16勝に次ぐ[109]
^ この年は本来140試合制であり、工藤はそれに1?回不足していたが、プロ野球ストライキの影響で2試合が中止となり代替試合が行われないまま138試合でシーズンが終了したため、規定投球回に到達したことになる。ちなみに工藤にとってこの年が規定投球回に達した最後のシーズンとなった。
^ のちに最年長200勝を含めいずれも山本昌が記録を更新している。
^ 2018年上原浩治が43歳3ヶ月で更新。
^ 実働10年未満では一軍公式戦初登板時すでに45歳9ヶ月であった浜崎真二がいる(実働3年)。
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