工藤公康
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小中学校時代

工藤は高坂小学校3年生から野球を始めた[31]。まず父親から野球を教えられ[32]、一緒にキャッチボールをするなどしていたが、幼少期の工藤[注 8]は野球は好きではなかった[33]。これは、熱狂的な読売ジャイアンツ(巨人)ファンであった工藤の父親が[17]、巨人が負けると機嫌を損ねて子供たちに当たり散らしたり、キャッチボールの際に息子がうまく投球できないと自分でボールを拾いに行かず、「早く取ってこい!」と怒鳴るなどしていたためだった[33]。一方、工藤は父親にカーブを教えてもらって投げたところ、ドロップ気味に大きく変化したため、父親から「お前は投手をやったらいいかもしれない」と言われていた[32]。父によれば兄弟たちは右利きだったが、公康だけは左利きだった[34]

工藤は4年生で高坂小の野球部に入部すると、5年生からはカーブを武器にエースとして活躍[1]。6年生の時には4番打者(投手)として中日新聞少年野球大会に出場し、名城公園で満塁本塁打を打ち、チームを大会優勝に導いている[32]。ただし、一学年上の生徒にいじめられ一時的に体操部に転部してから戻っている[35]

少年時代には野球週刊誌を購入してプロ野球選手の投球フォームを研究したり[注 9]バッティングセンターに通ったりして野球に打ち込んだが[37]、中学入学直後は野球部ではなく、ハンドボール部に入部[38]。しかし、工藤の野球センスに注目した教師(ハンドボール部の顧問)によって野球部に強制的に移籍させられ[38](野球部からハンドボール部に移籍したい生徒がいたためトレードされた[39])、すぐにエースとなる[1]。中学3年生の時には名古屋市大会の優勝投手になった[40]が、愛知県大会決勝戦で敗退し、全国大会には出場できなかった[1]
名古屋電気高校時代

久方中学校を1978年度(1979年3月)に卒業[41]。工藤家は経済的に貧しく、子供5人全員を無条件で高校まで進学させる余裕がなかった[注 10]ため、父は工藤に対し「野球で特待生として声がかかれば(高校に)行かせてやる。そうでなければ働け」と言っていたが、中学時代から評判の好投手だった工藤は地元・名古屋市の野球部名門校である名古屋電気高等学校(現:愛知工業大学名電高等学校〈愛工大名電〉)や享栄高校などからスカウトされた[注 11][42]。社会人野球まで経験した中学校の用務員が人脈を生かして複数の高校でテスト受験の機会を作ってくれたという[43]。当時は「甲子園を目指す」「プロ野球選手になる」という夢を持っていたわけではなかったが、工藤は結果的に野球を高校進学の手段とすることになった[44]。名古屋電気は当時まだ新興校だったが、当時監督に就任したばかりの中村豪が工藤の才能に惚れ込んでスカウトし、入学させた[45]。工藤は高校入学後、実家を出て寮生活を送るようになり[46]、1年生の秋からエースとして背番号1を着用した[40]。同校野球部は、工藤の他にも中村稔(1番打者・遊撃手 / 後に日本ハム入り)・高橋雅裕(2番打者・二塁手 / 後に大洋入り)・山本幸二[注 12](4番打者・捕手 / 後に巨人入り)らが在籍したタレント集団だった。[40]。高校時代は制球力を鍛えるため、学校とグラウンドの間(約13 km)を連日走ったり、山本とともに投球練習を繰り返したりしていた[40]

高校時代は、同学年かつドラフト同期の槙原寛己大府高校から巨人1位指名)・浜田一夫愛知高校から中日2位指名)とともに、愛知三羽烏と呼ばれ[29]速球と大きく割れるカーブを武器に活躍[47]。2年生秋の愛知県大会では自らの牽制悪投で西尾東高校に敗れた[40]

1981年4月29日、春の愛知県大会の準々決勝(熱田球場)で槙原を擁する大府高校と対戦[注 13]し、槙原から場外本塁打を打って7対1で勝利[40]。そして県大会で優勝し、中部大会に進出したが、2回戦(静岡代表・御殿場西高校との試合)で延長12回二死から連続5四球により逆転サヨナラ負けを喫した[49]。これにより、中村監督が2年生の左腕・長谷川に夏の大会を託すことを考えたほどのスランプに陥ったが、槙原の活躍や長谷川の成長に触発され復調[50]夏の愛知県大会では第5回戦(熱田球場・対東邦高校戦)で打席に立ったところ、右目付近に死球を受けて医務室に搬送されたが、意識朦朧状態になりながらも続投を志願[50]。中村も「将来のためにも、このまま終わらせたくない」と続投させ、4被安打に抑えて完封勝利[51]。そして浜田にも投げ勝ち、念願の甲子園(第63回全国高等学校野球選手権大会)出場を果たした[48]

甲子園デビュー戦は長崎代表長崎西高校との試合[1](第2回戦・8月13日)[52]。この試合では16奪三振を記録し[1]、史上18人目(19度目・金属バット採用後では初)のノーヒットノーラン[注 14]を記録(4対0)[52]


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