日清戦争の黄海海戦の戦訓により、装甲巡洋艦 (Armored cruiser) の重要性が改めて認識された[注 26]。日露戦争の黄海海戦(1904年)と日本海海戦(1905年)では、日本海軍の有力な諸外国製(輸入)装甲巡洋艦8隻[注 27]がイギリス製の前弩級戦艦4隻[注 28]と行動を共にし、大きな戦果を挙げる[42][注 29]。日本海軍は装甲巡洋艦を主力艦隊に編入して海戦へ投入したが[注 30]、その攻撃力に不満をもった[5]。そこで戦艦の砲力と巡洋艦の速力を持った大型艦(代償として防御力は重視せず)を建造、巡洋戦艦の元祖たる筑波型装甲巡洋艦が誕生した[30][注 3]。同海戦で敗北したロシア帝国海軍も、戦訓を取り入れて基準排水量約17,000トンに達する大型装甲巡洋艦リューリクをイギリスのヴィッカース=アームストロング社で建造した(1905年9月建造開始、1909年7月竣工)。
イギリス海軍は、上記海戦での戦艦主砲の威力、また同時に中間砲の射弾観測の困難さを重要視し、中間砲を廃止して主砲口径を統一することにより、主砲門数にして従来の2倍以上(従来型4門に対して10門〈片舷8門〉)を持つ戦艦「ドレッドノート」を1906年に建造した[46][47]。いわゆる弩級戦艦の誕生と[48]、建艦競争の勃発である[49]。またイギリスは日露戦争の戦訓から、少なくとも3ノットの優速があれば、不利な状況下でも危機を脱して態勢を立て直すことが出来ると認識した[50]。この考え方を装甲巡洋艦にも適用し、洋上で出会うあらゆる巡洋艦を撃滅し得る強力な超装甲巡洋艦が必要であると考え、従来型装甲巡洋艦はマイノーター級で打ち切りになった。1908年、ド級戦艦に匹敵する火力(30.5cm連装砲4基8門〈片舷6門〉)でありながら速力26ノット以上を発揮するインヴィンシブルが誕生した[51][52]。
建造当初、インヴィンシブル級は装甲巡洋艦に分類されていたが、1912年[53]にBattle Cruiserという新しい艦種名に分類されることとなった[34]。直訳すると「戦闘巡洋艦」になる[34]。日本海軍は同年8月28日に「巡洋戦艦」の名称で採用し、既存の筑波型(筑波、生駒)と鞍馬型(鞍馬、伊吹)が「巡洋戦艦」に艦種変更された[33]。同年11月21日には比叡が、翌年8月16日には金剛が巡洋戦艦に類別された[注 31]。 艦種艦名排水量速力主砲舷側装甲 最初期の「巡洋戦艦」的な軍艦の一つは、ロシア帝国海軍のペレスヴェート級戦艦(艦隊型装甲艦)であった[54]。対巡洋艦戦闘と通商破壊任務に対応できる「最大速力18ノットを発揮する高速戦艦」として就役したが[54]、技術発展により仮想敵国が保有する敷島型戦艦(18ノット発揮可能)に追いつかれてしまった[55]。この艦隊装甲艦は3隻とも日露戦争に参加し、バルチック艦隊所属の2番艦オスリャービャが日本海海戦で撃沈された[56]。太平洋艦隊所属の1番艦と3番艦は黄海海戦で損傷しつつ生還したが[57]、旅順攻囲戦により沈没したのち[58]、日本海軍に捕獲された(ペレスヴェートは戦艦相模、ポペーダは戦艦周防と改称)[59]。 イギリス式巡洋戦艦の特色は、主砲こそ同世代の戦艦と同等の物を搭載したが、防御装甲を軽防御に留めた代償に、装甲巡洋艦を凌駕する高速性能を持っていたことである[10]。というよりも日露戦争で得られた戦訓から、装甲巡洋艦の砲力を戦艦並みに引き上げ、かつ装甲巡洋艦の速力を維持した超装甲巡洋艦が、巡洋戦艦の発祥である[5][60]。ゆえに英語表記ではBattlecruiser、直訳すれば戦闘巡洋艦と呼ばれるのである[34]。この考え方はフォークランド沖海戦でドイツ装甲巡洋艦に対して火力と速力の優位性により、見事なまでに達成された。 イギリス海軍において弩級戦艦の性能は順次拡大され、弩級戦艦から既存の主砲口径を凌駕する34センチ(13.5インチ)砲
初期の巡洋戦艦と戦艦の比較
戦艦三笠15,200トン18ノット30.5cm砲04門223mm
装甲巡洋艦出雲09,773トン21ノット20.3cm砲04門178mm
装甲巡洋艦筑波13,750トン21ノット30.5cm砲04門178mm
弩級戦艦ドレッドノート18,110トン21ノット30.5cm砲10門279mm
巡洋戦艦インヴィンシブル17,373トン25ノット30.5cm砲08門152mm
巡洋戦艦の発達
しかし、ドイツ海軍もまた超ド級戦艦や超ド級巡洋戦艦を建造し始めたことに対応して、イギリス海軍は38.1連装砲4基8門を搭載し、速力25ノットを発揮するクイーン・エリザベス級戦艦を開発した[64]。クイーン・エリザベス級戦艦は、巡洋戦艦と戦艦をあわせたような「軽速戦艦」であり[注 6]、その速力は最初期の巡洋戦艦に匹敵した[63]。