州兵
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この民警団は、シャイアカウンティなど地域を治める役人[注 1]の指揮のもとで集団警備力としての任に当たっており[8]、この伝統を踏まえて、「全ての健康な市民は、共同防衛のため、いかなるときにも武器をとって戦える状態にあるべき義務と責任を有する」という思想が生じた[5]
植民地民兵隊と独立戦争マサチューセッツ植民地の民兵隊

アメリカ合衆国の植民地時代の1636年12月、マサチューセッツ湾直轄植民地において入植者たちによる民兵隊 (Massachusetts Bay Colonial Militia) が設置された[9]。入植者による民兵組織そのものは、既にバージニア植民地において設置されていたものの、バージニアのものは古典的なイングランドの民兵組織の形態を踏襲していたのに対し、アメリカ先住民との紛争が多発するニューイングランドに位置するマサチューセッツ植民地においては、当時のヨーロッパで進んでいた軍制改革を参考にして歩兵連隊の制度を取り入れるなど、銃砲による戦闘を効果的に行えるよう改良を施していた[10]

同年から1754年にかけて東部の入植地の大部分に同様の組織が設置されており[11]、現在ではマサチューセッツ州民兵連隊が創設された1636年12月13日がアメリカ陸軍州兵の起源とされる[12]。植民地民兵隊は単なる軍事組織に留まらず、住民自治・学校教育・キリスト教会に並ぶ共和主義の支柱とも評されており、その訓練日には定住地から多くの人が集まることもあって、祝祭、更には政治を話し合う集会としての性格も帯びていた[13]。植民地政府が住民の意に反する政策を採っている場合、ベイコンの反乱に見られるように、住民が民兵隊の多衆の威力によって反抗することもあった[14]

このような暴力による反抗の矛先が植民地政府ではなくイギリス本国に向かったのが、1773年ボストン茶会事件であった[15]。以後、イギリス当局は反英主義の愛国派への取り締まりを強化したが、1775年4月には愛国派指導者の逮捕と民兵隊の武装解除を試みたイギリス軍に対しミニットマンなど現地の民兵隊が反撃して、レキシントン・コンコードの戦いが発生した[15]。植民地住民の中にはイギリスの統治を容認する忠誠派も少なくなかったが、愛国派は忠誠派が民兵隊の指揮を執ることを良しとせず、植民地住民同士の争いも発生した[15]

このような状況では、政府の命令というだけでは民兵隊の隊員は従わず、将校が旗幟を鮮明にして兵員に説明して同意を得る必要があり、民兵隊は直接民主制の場にもなっていった[15]。ただしイギリスとの和解を願う植民地住民もイギリス当局が植民地社会を蹂躙することは容認できず、1775年5月に開幕した第2次大陸会議では、13植民地の連合軍として大陸軍が結成された[16]。以後、ジョージ・ワシントン司令官の求めに応じて多くの民兵隊が参集し[5]、8年に渡る独立戦争で約16万人にものぼる民兵隊が動員されて主要な戦闘を戦い抜いた[11]
合衆国草創期と1792年民兵法

パリ条約によるイギリスとの講和が達成間近になるとアメリカ人の間では危機感が薄れ、戦争で荒廃した国土の復興に労力を振り向ける必要性もあって、同条約が調印された1783年には大陸軍は解散した[17]。翌年には職業軍人による連隊 (First American Regiment) が創設されたものの[17]、以後も連邦政府の軍事力は最低限に留められており、軍事作戦の必要が生じた際には、植民地民兵隊を引き継いだ各州の民兵隊に依存せざるをえない時代が続いた[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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