州の権限
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人種差別やジム・クロウ法の支持者はこれら州レベルの政策に連邦政府が干渉することを非難した。

ブラウン対教育委員会裁判の判決(1954年)は、プレッシー対ファーガソン裁判(1896年)の判決を覆したが、それでも南部では憲法修正第14条が有効とならず、1964年の公民権法[2]1965年の選挙権法の成立を待たなければならなかった。幾つかの州議会は干渉決議を通し、最高裁のブラウン事件判決は州の権限を侵害したと宣言した。

キング牧師による非暴力公民権運動は、バス・ボイコット、シット・イン、自由乗客による人種差別撤廃の試み(数人は白人至上主義者にひどく殴られた)などの手段により、1964年の公民権法を勝ち取ることができた。

セルマからモンゴメリーに向かう行進の一部であったエドムンド・ペタス橋で投票権に関する州の権限行使に対する抗議が、1965年の投票権法に結実した。ジェイムズ・リーブ、ジミー・リー・ジャクソンおよびビオラ・リウッツォが公民権運動で活動し、敵に殺された[3]
現在の議論

1964年、カリフォルニア州における公正住宅の問題が州法と連邦主義の境界を論じる問題となった。カリフォルニア提案第14号はラムズフェルド公正住宅法を覆し、住宅販売においていかなる方法の差別も許可した。キング牧師達はこれを公民権法に対する反動と見なした。俳優であったロナルド・レーガンは提案第14号を支持することで人気を博し、後にカリフォルニア州知事に選ばれた[4]。最高裁の ⇒ライトマン対マルキー事件 判決は1967年に提案第14号を否定し、憲法修正第14条の平等権保護条項を肯定した。

他に一度ならず、州間高速道路に関する州の権限問題がある。連邦政府はある特定の法律を通さなかった州から州間高速道路の予算を引き上げると脅した。一定期間高速道路予算を失った州は財政危機か社会基盤の崩壊あるいはその両方に見舞われることになった。その最初の処置(国全体の速度制限に関する立法)は直接高速道路に関わり、燃料不足に直面することになったが、その後の処置はほとんど高速道路とは関係がなく、国家的危機に陥るようなこともなかった。このような処置を批判する人々は、連邦政府が州と連邦政府との間の伝統的なバランスを壊そうとしていると感じている。

より最近の州の権限に関する問題は、軍事基地整理統合委員会 (BRAC)がアメリカ合衆国議会とアメリカ国防総省に対し、州兵の基地を統合したり閉鎖することにより州兵組織の大々的な改革を提案したときに起こった。2005年のこの提案は多くの州から強い批判を浴び、幾つかの州は連邦政府を告訴した。その根拠は、合衆国議会や国防総省が関連する州の知事の事前承認もなく基地の統廃合を進めた場合、州の権限を侵害しているというものであった。ペンシルベニア州がその州空軍第111戦闘機隊の廃止差し止めを連邦裁判所で勝ち取った後で、合衆国議会や国防総省の指導者はBRACに関する他の訴訟を決着させることを選び、他の原告州との和解に達した[5]

現在の州の権限に関する問題には、死刑自殺幇助ゲイの結婚、ゴンザレス対オレゴン州事件の医者による自殺幇助、医療用のマリファナの使用などが含まれている。とくにマリファナの問題は連邦法に違反している。ゴンザレス対ライチ事件では、最高裁が連邦政府の立場を認め、麻薬取締局が医療用のマリファナ患者と投薬者を逮捕することを認めた。
「法律用語」としての州の権限

「州の権限」という言葉は、人種差別擁護派によって法律用語として使われてきた。人種隔離主義者で大統領候補にもなったストロム・サーモンドを指導者とするディキシークラットの公式名称にも使われた。アラバマ州知事ジョージ・ウォレスはその就任演説で「今ここで人種隔離を!明日も人種隔離を!永遠に人種隔離を!」と宣言したことでも有名であるが、後に「今ここで州の権限を!明日も州の権限を!永遠に州の権限を!」と言うべきだったと述懐した。しかし、ウォレスは人種隔離が大きな州の権限に関する闘争の象徴的一問題に過ぎなかったと言った。この観点について、人種隔離から州の権限へのすげ替えは婉曲表現よりもより物事をはっきりさせることになると歴史家は言っている[6]

1980年の大統領選挙開幕の日、ロナルド・レーガンはミシシッピー州フィラデルフィアに近いネショバ郡催事場での演説で「私は州の権限を信じる」と宣言した。フィラデルフィアは1964年に3名の公民権運動家が殺された場所であった。アンドリュー・ヤングやボブ・ハーバート達は、レーガンが州の権限に関する演説をするのにこの場所を選んだことは、南部の分離主義者にたいするベールを被ったアピールだと信じた[7][8]。しかし、レーガンの選挙運動員はそのような関連性を否定した[9]。この演説会の時に、ストロム・サーモンド(この時までにサウスカロライナ州選出の共和党上院議員に鞍替えしていた)は「我々は連邦政府が州の権限からその汚れた手を引っ込めておくことを望む」と言った。サーモンドは熱心な分離主義者であったが、1970年以後は公然と分離主義に反対していた。
州の権限とレンキスト裁判

アラバマ大学評議員会対ガーレット事件(2001年[10] およびキメル対フロリダ評議員会事件(2000年[11] に対する最高裁判決は、州が高齢者や障害者に対する差別について合理的根拠の照査を行うことを認めた。このような種類の差別は合法の州の利益に合理的に関連しており、細かい正確さは必要ないという判断であった。アメリカ合衆国対モリソン事件(2000年)[12] に対する最高裁判決は、強姦被害者が襲撃者を連邦裁判所に告訴する可能性を制限した。最高裁首席判事ウィリアム・レンキストは、法の強制という面で「州は歴史的に主権者であった」と説明した。裁判所意見では商業条項や憲法修正第14条の狭い解釈を要求した。

上記キメル、ガーレットおよびモリソンの事件は、合衆国議会の州に対する権力に関する力と限界という立場に立った裁判所の以前の判断が、一度ならず気まぐれであったことを示した。以前の判断とはアメリカ合衆国対ロペス事件(1995年)、セミノール族対フロリダ州事件(1996年)およびボーン市対フローレス事件(1997年)である。議会は過去に1964年の公民権法を含む公民権法案を通す時に商業条項や平等権保護条項に頼っていた。

ロペスの事件では、商業条項は州間商業交易に直接影響する事項に限定した。これは銃砲管理法や差別犯罪、および商業には影響するが直接商業には関係しない犯罪を除外した。セミノール事件は、「州の主権者免責」原理を補強し、公民権侵犯を含む多くの事項で州を告訴することが難しくなった。フローレス事件では、「合同と比例」の要求で、議会が州に平等権保護条項を守らせる時に行き過ぎないようにし、カッツェンバッハ対モーガン事件(1966年)の歯止め理論に置き換わるものであった。歯止め理論とは議会が裁判所で御貯められた公民権を徐々に上げていくことはできるが、法的に認められた権利を徐々に減らすことはできないというものであった。モリソン事件の重要な判例はアメリカ合衆国対ハリス事件(1883年)であり、監獄内リンチには平等権保護条項が適用されないとした。その理由は州の行動原則は州の行動にのみ平等権保護条項を適用し、個人の犯罪には適用されないということであった。歯止め理論がフローレス事件で「合同と比例」に置き換えられたので、議会が裁判所判断を越えて行き過ぎないようにするために過去の判例を持ち出すことが容易になった。最高裁判事のスティーブンスのような批判者は裁判所の司法積極主義(法を望ましい結論に至るように解釈すること)を非難している。

レンキスト法廷における連邦政府権力に対抗する傾向はゴンザレス対ライチ事件では止まった。司法判断は、たとえ州が許可していたとしても連邦政府が大麻の医療利用を禁止する権力を支持した。レンキスト自身はライチ事件に反対する者であった。
脚注[脚注の使い方]^ Jefferson Davis' Resolutions on the Relations of States, Senate Chamber, U.S. Capitol, February 2, 1860, From The Papers of Jefferson Davis, Volume 6, pp. 273-76. Transcribed from the Congressional Globe, 36th Congress, 1st Session, pp. 658-59.
^42 USC 21 Archived 2011年12月29日, at the Wayback Machine.
^ Parting the Waters, Pillar of Fire and Canaan's Edge by Taylor Branch
^ Pillar of Fire, Taylor Branch, page 242
^Judge Rules Favorably in Pennsylvania BRAC Suit (Associated Press, 26 August)[リンク切れ]
^ Carter, Dan T. From George Wallace to Newt Gingrich: Race in the Conservative Counterrevolution, 1963-1994. p. 1.
^ Los Angeles Times, Aug. 13, 1980, p. D7, Shades of the Klan: Reagan's Talk of State's Rights is Scary, Andrew Young.
^ Herbert, Bob (June 16, 2005) "An Empty Apology." New York Times.
^ Arkansas News Bureau, July 2, 2006, The 1980 Neshoba County Fair in Context, David Sanders. ⇒[1]
^Board of Trustees of the University of Alabama et al. v. Garrett et al., U. S. Supreme Court, decided February 21, 2001
^Kimel v. Florida Board of Regents, U. S. Supreme court, decided January 11, 2000
^United States v. Morrison, U. S. Supreme Court, decided May 15, 2000


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