川越市
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1920年大正9年)の第1回国勢調査人口では、埼玉県の総人口1,319,533人のうち、川越町は24,675人で県内1位であった。当時の川越町の人口は県庁所在地の浦和町(現・さいたま市浦和区)(11,694人)の2倍以上であった。川越町の町域は当時の市街地の一部に過ぎず、街は町域外に拡大、明治以降、人口は主に旧仙波村など隣接地で増加していった。

埼玉県内の市の数が4市に増えた1935年昭和10年)の国勢調査で川越市の人口は35,000人強であり、浦和市川口市などに抜かれ埼玉県内で第3位都市となった。

2005年(平成17年)の国勢調査で初めて所沢市に人口で抜かれたが2010年(平成22年)には再び人口で抜き返し県内第3位の都市に返り咲いた

2023年令和5年)現在は約35万人で今後数年は増加傾向が続くが、その後減少に転じると予測される[5]

昼夜人口比率

昼夜人口比率は、96.51%(2005年)。県庁所在地・さいたま市は91.89%。また埼玉県内は所沢市の85.02%、越谷市の83.84%、上尾市の82.92%、春日部市の80.15%など、70%-80%台の市が大半である。
地理
気候

ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属する。1年を通じて穏やかな気候で、年平均降水量は1352mm、年平均気温は15.7℃、年平均湿度は70.3%、年平均風速は2.2m/s。(2016年版統計かわごえ)

一方で、東京都心のヒートアイランド現象の影響を受け、夏の猛暑が厳しくなっているとの指摘もある。川越市は気象庁の精密観測網でカバーされていないが、首都大学東京などが独自に気温を計測したところ、夏日の最高気温は酷暑で知られる埼玉県熊谷市を上回るとの研究結果を2017年6月に発表した[6]
地誌川越市中心部周辺の空中写真。
2019年8月8日撮影の16枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

都心から30km圏に属し、北緯35度55分30秒、東経139度29分08秒(市役所のある元町)。市域は東西およそ16.3km、南北およそ13.8km。標高は元町で海抜18.5m、市の南端が最も高く50.7m、東部が最も低く6.9m、標高差およそ44mである。

荒川多摩川に挟まれた地域を武蔵野台地と言い、川越はその北東端に位置する。武蔵野台地は奥秩父山地水源とする多摩川が形成した扇状地である。太古の多摩川(古多摩川)は東京都神奈川県の都県境方面ではなく埼玉県西部の入間郡を横断して流れていた(今の入間川の流路とほぼ同じ)。武蔵野台地は柳瀬川以北を特に川越台地と呼び、さらに入間川を超えた北西側を特に入間台地と呼ぶ。南西には狭山丘陵が接する(狭山丘陵も古多摩川が土砂を堆積してできた丘陵で、狭山丘陵の形成によって多摩川は後に流路を南に変えることになった)。河越館が築かれたのは入間台地の東限で、川越城が築城されたのは川越台地の北限である。川越城は地形を利用した平山城であった。1457年長禄元年)に川越城と江戸城を築城した太田道灌は、両城を結ぶ防衛ラインとして川越街道を造った。以来、川越街道より西南側へ多摩地域までが武蔵野と呼ばれる地方で、文化的な一体性がある。

川越台地を取り囲むように周囲は低地であり市内からは関東平野を囲む山々を眺めることができる。外秩父山地や武蔵野台地の武蔵野面(古多摩川が形成した高位の河岸段丘)に降った雨は、入間川や新河岸川越辺川不老川小畔川赤間川など(今では多摩川水系ではなく)荒川水系の幾多の河川を形成し、川越の町を囲むような低地に主に北西方向から南東に流れる。町は台地上に形成され、南側の台地に拡大する余地が残っており、歴史的にも南へ街が広がってきた。甲武信ヶ岳を源とする荒川は江戸時代寛永の瀬替えにより大宮台地西側を流れるようになり流量を増やした。荒川は、大持山から流れ出た入間川と当市内の古谷上で合流し、日本でも最大規模の河川敷を形成する(国道16号上江橋は河川にかかる国道の橋としては日本最長である)。このため、「外川」と呼ばれた荒川の対岸の大宮などとは歴史的にも結び付きがあまりない。

川越街道は入間川や荒川を渡ることなく江戸へ通じたので、荒川や利根川の氾濫に苦しめられた中山道に劣らず賑わった。「内川」と呼ばれた新河岸川は江戸へ向って傾斜し隅田川に合流するので、川筋が整備され舟運が盛んであった。大正時代に新河岸川は赤間川と合流され、さらに川越市街を取り巻く形となった(大正時代に新河岸川のルートに東武東上本線が建設され、舟運は廃された)。こうした河川が市内北部や東部に広大な氾濫地である荒川低地を作り出し、稲作地帯となっている。市内東部には埼玉県内最大の自然沼である伊佐沼もある。旧荒川の流路に沿って自然堤防も形成されている。こうした沖積層は、地下水位が高く軟弱な粘土やシルトが厚く分布している。

一方、武蔵野台地(川越台地・入間台地)上にある市内中心部・南部・西部は対照的に洪積台地となっており、富士山浅間山火山灰が形成した関東ローム層(立川ローム層とその下の武蔵野ローム層)の下には古多摩川が形成した比較的安定した礫層がある。関東ローム層は保水力が無く井戸水に困り、また江戸時代以前は武蔵野台地を水源とする川は石神井川や不老川など数少なく、その上、瀬切れを起こしやすく台地上では水の確保に苦労した。現在では武蔵野の雑木林の面影を残し、水はけが良いことから畑作地帯となっている。
地名の由来

直接の由来は平安時代河越館を構えた豪族河越氏[7]であるが、その由来は古来より諸説ある。

川越は古来より武蔵国の中枢で、諸方に交通の便が拓けていたが川越市街地を川が囲む形となっており、入間川を越えないとたどり着けない地であることから「河越」と称されたという説や、養寿院にある銅鐘(国の重要文化財)に「武蔵国河肥庄」という銘があり吾妻鏡にも文治2年(1186年)の記述に既に「河肥」の文字があることから入間川の氾濫によって肥沃な地であるからという説、などである。
隣接している自治体・行政区

上尾市

さいたま市西区

ふじみ野市

富士見市

所沢市

狭山市

日高市

鶴ヶ島市

坂戸市

入間郡三芳町

比企郡川島町

行政

市長:
川合善明2009年2月8日 - 、4期目、元川越市長・川合喜一の息子)

歴代市長

代氏名就任年月日退任年月日
初代
綾部利右衛門1922年12月1日1923年2月
2武田熊蔵1923年8月1日1927年7月31日
3寺尾規矩郎1927年9月22日1931年9月21日
4林寿夫1931年10月13日1932年1月15日
5早川金十郎1932年3月1日1935年8月13日
6橋本定五郎1935年8月17日1939年8月16日
7伊達徳次郎1939年8月24日1943年8月23日
8渋谷塊一1943年9月14日1945年3月16日


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