川端康成
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この時に岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみと出会った[20][83][84]下田港からの帰京の賀茂丸では、受験生・後藤孟と乗り合わせた[34][85]

彼らの善意や、踊子の〈野の匂ひがある正直な好意〉は、康成の不幸な生い立ちが残した〈精神の疾患〉を癒し解放した[26]。彼らとのやりとりは、その後の草稿『湯ヶ島での思ひ出』、小説『伊豆の踊子』で描かれることになる。この旅以来、湯ヶ島は川端にとって〈第二の故郷〉となり[68]、宿泊した湯ヶ島湯本館(田方郡上狩野村湯ヶ島1656番地)へ毎年10年間通うようになる。幼い時の眼底結核により右目が見えにくく、右半身も時々しびれる持病があった康成には、湯治をも兼ねていた[26][33][注釈 6]伊藤初代(1919年、13歳)

伊豆旅行から帰った後から、康成は寮の級友たちともなじむようになり、一緒に白木屋食堂などに行った[87]。三明永無と白木屋の女給・山本ちよを張ったりすることもあった[88]1919年(大正8年)、池田虎雄を通じて、池田の神戸一中時代の友人・今文武の兄・今東光と知り合い、本郷区西片町(現・文京区西片1丁目12-13)に住んでいた今宅へ寄宿舎からよく遊びに行き、今東光の父・武平(元郵船会社欧州航路の船長)から霊智学(心霊学)、神智学の話に耳を傾けた[89][90][注釈 7]。康成は、今東光、今日出海兄弟の母親から「康さん」と呼ばれ、家族同然に可愛がられていた[80][92]。6月には、友人で文芸部の氷室吉平から何か書いてみないかと勧められて[93]、一高文芸部の機関誌『校友会雑誌』に、伊豆での旅芸人との体験と絡めて、〈ちよ〉という名の3人の少女(白木屋の女給、親戚の娘、伊豆の踊子)にまつわる奇妙な話を描いた「ちよ」を発表した[94]。この作品も川端は処女作としている[95][注釈 8]

康成はが飲めない性質であったが、石濱、鈴木、三無らとカフェや飲食店によく出かけ、この年の秋頃、本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)にあるカフェ・エランで、またしても「ちよ」(通称)と呼ばれる可憐な少女女給・伊藤初代と出会った[72][80][87][96]。伊藤初代は、岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区岩谷堂)の農家出身の父・忠吉の長女として1906年(明治39年)に福島県で生れ、幼くして母と死別し父とも離れ、叔母や他人の家を転々として育ち、上京しカフェ・エランのマダム(平出修の義理のの元妻)の養女(正式ではない)となっていた13歳の少女であった[97][98]。しかしマダムの台湾行に伴い店を閉め[注釈 9]、初代は翌年9月にマダムの親戚の岐阜県稲葉郡加納町6番地(現・岐阜市加納)の浄土宗西方寺に預けられて行った[9][18][87][99][注釈 10]

なお、この当時東京帝国大学法学部の学生であった平岡梓は、ある冬の日、帝大正門前の道で同級生の三輪寿壮が見知らぬ一高生(康成)と一緒にいるのに出くわしたという[102]。平岡梓は肉でも食べようと湯島牛肉屋「江知勝」に三輪を誘うが、今日は連れがいるから駄目だと、少し離れたところに立っている「弊衣破帽で色褪せたぼろぼろのマント」を羽織って、「目玉ばっかりバカでかい貧弱な一高生」を三輪は指さした[102]。そしてその数日後、三輪が平岡の家に遊びに来た時、その一高生・川端康成のことが話題となり、紹介すると言われたが断わったという[102]。彼(三輪)は 「川端という男はぼくらの持っていないすばらしい感覚とか神経の持主で、平岡お前もつきあってみたらどうだ、少しはましな人間になるぞ」といいましたが、ぼくは文学青年なんて畑ちがいの人間とはつきあう資格はないよといって笑いました。この時はまさか、この一高生がノーベル賞作家の川端康成になろうとは、ぼくならずとも誰が想像できたでしょう。ご自身でさえ、そんな期待はつゆほどもお持ちでなかったでしょう。それから幾星霜、(中略)倅(三島由紀夫)が作家となった口火を切ってくださり、その後も今日まで陰になり日向になり援護してくださったのです。 ? 平岡梓「川端さんのこと」[102]
出発――『新思潮』と伊藤初代菊池寛(1948年)

1920年(大正9年)7月に第一高等学校を卒業し、9月に東京帝国大学文学部英文学科に入学[注釈 11]。同級に北村喜八本多顕彰鈴木彦次郎石濱金作がいた。しばらくは、東京府豊多摩郡大久保町東大久保181(現・新宿区新宿7丁目13)の中西方に下宿している鈴木彦次郎の部屋に同居した。同年、石濱金作、鈴木彦次郎、酒井真人、今東光と共に同人誌『新思潮』(第6次)の発刊を企画し、先輩の菊池寛に同名の誌名を継承することの諒解を得た[34][77][注釈 12]。当時、小石川区小石川中富坂17番地(現・文京区小石川2-4)に住んでいた菊池寛を訪問し、これ以降、川端は菊池を通じ芥川龍之介久米正雄らとも面識を持ち、長く菊池の恩顧を受けることとなる[40][77]。なお当初、菊池は今東光を同人に入れることに反対したが、川端は今東光を入れないのなら、自分も同人にならないと言ったとされる[92]。11月から川端は、東京市浅草区浅草小島町13の高橋竹次郎方(帽子洗濯修繕屋)の二階に下宿した[16]

1921年(大正10年)2月に第6次『新思潮』を創刊し、「ある婚約」を掲載。4月の第2号には、靖国神社招魂祭での17歳の曲馬娘〈お光〉を軸に寸景を描いた小説「招魂祭一景」を発表し、菊池寛から〈ヴイジユアリゼイシヨンの力〉を褒められた[77]


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