川端康成
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

その突然の死は国内外に衝撃を与えた[5]

鎌倉の自宅書斎には、『岡本かの子全集』(冬樹社版)の「序文」の1枚目と2枚目の11行まで書いた原稿用紙と、1枚目の書き直しが8枚あった[5]。これは以前に川端が書いたものを冬樹社がアレンジして作った下書きが気に入らなくて、書き直そうとしたものだという[320]。またその後に、書斎の手文庫(小箱)の中からは、B6判ぐらいの大きさの千代紙の表紙のついた和綴じの、和紙でできたノート2冊が発見された。そのノートには『雪国抄』一、二と題されていた[5]。前年11月に伊達宗克から依頼されていた『裁判記録「三島由紀夫事件」』の序文は、3月の盲腸手術もあってゲラ刷りも遅れたこともあり、この4月16日か17日に弟子の北條誠が出来上がった文章を川端から受け取って伊達に渡す予定日になっていたが叶うことはなかった[311]川端康成生誕地の碑

翌17日に通夜をし、高田博厚が来てデスマスクをとった[321]。18日に密葬が自宅で行われた。政府から正三位に叙位され、勲一等旭日大綬章を叙勲された[322]。5月27日には、日本ペンクラブ日本文芸家協会日本近代文学館の三団体葬により、「川端康成・葬」が芹沢光治良葬儀委員長のもと青山葬儀所で執り行われた。戒名は「文鏡院殿孤山康成大居士」(今東光が名付けた[323])。6月3日、鎌倉霊園に埋葬された[47]。この日は偶然にも伊藤初代の遺骨が、仮埋葬されていた文京区向丘2丁目29-1の十方寺から鎌倉霊園に移されていた日であった[324]。霊園の事務所で初めてその事実を知った川端香男里は、「(川端と初代は)最後まで不思議な御縁があった」と語っている[324]

8月に遺稿の「雪国抄」が『サンデー毎日』に掲載された。9月から日本近代文学館主催の「川端康成展」が全国各地で巡回開催された。10月に財団法人「川端康成記念会」が創設され、井上靖が理事長となった。11月、日本近代文学館に「川端康成記念室」が設置された[47]。同月には、3月に川端が断った揮毫を完成させるために、『美しい日本の私―その序説』の川端の字から集字して、奈良県桜井市にある日本最古の古道「山の辺の道」に川端揮毫の倭建命の歌碑「万葉の碑」が完成された[314]
死後茨木市立川端康成文学館

1973年(昭和48年)3月、財団法人「川端康成記念会」によって川端康成文学賞が創設された[47]

1974年(昭和49年)4月16日の三回忌に、伊藤初代の父親・忠吉の郷里の岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区)の増沢盆地を見下ろす向山公園の高台に、「川端康成ゆかりの地」の記念碑が建立された(題字は長谷川泉で、裏側の銘文は鈴木彦次郎[120][325]

1976年(昭和51年)5月に、鎌倉市長谷264番地(現・長谷1丁目12-5)の川端家の敷地内に「川端康成記念館」が落成して披露された[47]

1981年(昭和56年)5月20日、大阪の住吉神社境内に、『反橋』の文学碑が建立された[174][326]。6月には、長野県上水内郡鬼無里村(現・長野市鬼無里)松巌寺境内に、『牧歌』の一節と、川端自筆の道元禅師の「本来の面目」――春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり――が刻まれた文学碑が建立された[174]。この文学碑を建てることを発案した川俣従道は、1936年(昭和11年)11月23日の新嘗祭の学校の式の帰り、この地の鬼女紅葉伝説の跡を歩いていた川端に道を聞かれた小学生であった[174][327]。川俣は中学校では、酒井真人(川端の旧友)の教え子となり、それがきっかけでその後、川端と再会したという[174][327]天城峠にある川端のレリーフ

同年1981年(昭和56年)5月1日には、伊豆の湯ヶ島の水生地に、川端の毛筆書きによる『伊豆の踊子』の冒頭文を刻んだ新しい文学碑が建てられ除幕式が行われた[328]。左半分の碑面には川端の顔のブロンズのレリーフがはめこまれている[328]

1985年(昭和60年)5月に、茨木市立川端康成文学館が開館した。

生誕110年の年に当たる2009年(平成21年)11月14日に、岐阜県岐阜市湊町397-2のホテルパークから鵜飼観覧船乗り場に行く途中のポケットパーク名水に、小説『篝火』にちなんだ「篝火の像」(長良川に向い、鵜飼船の篝火を眺める川端と伊藤初代が並んだ像)が建立され除幕式が行われた[329]

2014年(平成26年)に、川端が伊藤初代に宛てた未投函書簡1通と、初代から川端に宛てた書簡10通が川端の旧宅から発見された[330][331][332][333]

2018年(平成30年)茨木市によって川端康成青春文学賞が創設された[334]

生誕120年となる2019年には、姫路市立美術館姫路文学館で「生誕120年 文豪川端康成と美のコレクション展」が開催され、川端が収集した美術品や直筆原稿、書簡など約280点が公開された[335][336]

没後50年となる2022年日本近代文学館では4月2日から6月11日に「没後50年・日本近代文学館開館55周年 川端康成展 ―人を愛し、人に愛された人―」が開催された[337][338]。編集委員は坂上弘中島国彦がつとめた[338]。川端康成文学館では5月に特別展が開催された[339]神奈川近代文学館では10月1日から11月27日に特別展「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」が開催され[340][341][342]、約400点の資料が展示された[342]。編集委員は荻野アンナがつとめた[341]。ゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画もあった[342][343]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:867 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef