川端康成
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他人の世話で生きなければならない身となり、康成の中で〈孤児根性、下宿人根性、被恩恵者根性〉が強まった[17][57][58]。遠慮しがちで、面と向って明るく感謝を表現できなかった当時のことを川端は、〈恥づかしい秘密のやうなことであるが、天涯孤独の少年の私は寝る前に床の上で、瞑目合掌しては、私に恩愛を与へてくれた人に、心をこらしたものであつた〉と語っている[23]。また自身の出自(生命力の脆弱な家系)と自身の宿命について以下のように語っている[59]。私の家は旧家である。肉親がばたばたと死んで行つて、十五六の頃から私一人ぽつちになつてゐる。さうした境遇は少年の私を、自分も若死にするだらうと言ふ予感で怯えさせた。自分の一家は燃え尽くして消えて行く燈火だと思はせた。所詮滅んで行く一族の最後の人が自分なんだと、寂しいあきらめを感じさせた。今ではもうそんな消極的なことは考へない。しかし、自分の血統が古び朽ちて敗廃してゐる。つまり代々の文化的な生活が積み重り積み重りして来た頂上で弱い木の梢のやうに自分が立つてゐる事は感じてゐる。 ? 川端康成「一流の人物」[59]

両親、祖父母、姉の全ての肉親を失ったことは、康成に虚無感を抱かせると同時に、「霊魂」がどこかに生きて存在していてくれることを願わずにはいられない思いを与えた[60]。親戚や周囲の人々の多くは親切に接してはくれても、それは本当の肉親のように、お互い悪口やわがままを言い合っても後が残らない関係とはならず、もしも自分が一度でも悪態をついたならば、生涯ゆるされないだろうということを知っていた康成は、常に他人の顔色を窺い、心を閉ざしがちな自身のあり方を〈孤児根性〉として蔑んだ[60][61]。そして、どんなわがままもそのまま受け入れてくれる母親的な愛の有難さに対して、康成は人一倍に鋭敏な感受性や憧れを持つようになる[7][60]

8月に康成は、母の実家・黒田家の伯父・秀太郎(母の実兄)に引き取られ、吹田駅から茨木駅間を汽車で通学するようになったが、康成が本屋で買う本代がかさむために翌年3月から寄宿舎に行くことになった[52][62]
初めての恋慕・小説家への野心

1915年(大正4年)3月から、中学校の寄宿舎に入り[62][63]、そこで生活を始めた康成は、寄宿舎の机の上には、美男子であった亡父・栄吉の写真の中でも最も美しい一枚を飾っていた[25][44]。2級下の下級生には大宅壮一や小方庸正が在学していた[40]。大宅と康成は、当時言葉を交わしたことはなかったが、大宅は『中学世界』や『少年世界』などの雑誌の有名投書家として少年たちの間でスターのような存在であったという[40]。康成は、武者小路実篤などの白樺派や、上司小剣江馬修、堀越亨生、谷崎潤一郎野上彌生子徳田秋声ドストエフスキーチェーホフ、『源氏物語』、『枕草子』などに親しみ[40][52][64]長田幹彦の描く祇園鴨川花柳文学にかぶれ、時々、一人で京都へ行き、夜遅くまで散策することもあった[40]

同級生の清水正光の作品が、地元の週刊新聞社『京阪新報』に載ったことから、〈自分の書いたものを活字にしてみたいといふ欲望〉が大きく芽生え出した康成は、『文章世界』などに短歌を投稿するようになったが、落選ばかりでほとんど反応は無く、失意や絶望を感じた[52]。この頃の日記には、〈英語ノ勉強も大分乱れ足になつてきた。こんなことではならぬ。俺はどんな事があらうとも英仏露独位の各語に通じ自由に小説など外国語で書いてやらうと思つてゐるのだから、そしておれは今でもノベル賞を思はぬまでもない〉と強い決意を記している[65]

意を決し、1916年(大正5年)2月18日に『京阪新報』を訪ねた康成は、親切な小林という若い文学青年記者と会い、小作品「H中尉に」や短編小説、短歌を掲載してもらえるようになった[52]。4月には、寄宿舎の室長となった。この寄宿舎生活で康成は、同室の下級生(2年生)の清野(実名は小笠原義人)に無垢な愛情を寄せられ、寝床で互いに抱擁し合って眠るなどの同性愛的な恋慕を抱き(肉体関係はない)[26][66]、〈小笠原はこんな女を妻にしてもよからうと思ふ位柔和な本当に純な少年だ〉と日記に綴っている[67]

川端は、〈受験生時分にはまだ少女よりも少年に誘惑を覚えるところもあつた〉と述懐している[26]。小笠原義人とはその後、康成が中学卒業して上京してからも文通し、一高帝国大学入学後も小笠原の実家を訪ねている[26]。康成は、〈お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した〉と、小笠原に送ろうとしてとどまった手紙の後半で綴っている(この後半部分の手紙は、一高の授業で作文として提出した)[26][注釈 3]。小笠原義人との体験で康成は、〈生れて初めて感じるやうな安らぎ〉を味わい、〈孤児の感情〉の虜になっていた自分に、〈染着してゐたものから逃れようと志す道の明り〉を点じた[68]。川端は、清野(小笠原義人)との関係について、〈それは私が人生で出会つた最初の愛〉、〈初恋〉だとし、以下のように語っている[52]。私はこの愛に温められ、清められ、救はれたのであつた。清野はこの世のものとも思へぬ純真な少年であつた。それから五十歳まで私はこのやうな愛に出合つたことはなかつたやうである。 ? 川端康成「独影自命」[52]

この年の9月には、康成と同じ歳の中条百合子坪内逍遥の推薦で『中央公論』に処女作を発表し、〈田舎者の私〉である康成を驚かせ、次第に康成の内に、中央文壇との繋がりを作りたいという気持ちが動き出していた頃であった[52][70]。また同年には、康成の作家志望を応援していた母方の従兄・秋岡義愛の紹介で、義愛の友人であった『三田文学』の新進作家の南部修太郎文通が始まった[52][71][72]。なお、この年の秋には、祖父と暮らした豊川村大字宿久庄の家屋敷が、分家筋の川端岩次郎(川端松太郎の妹の婿)に売られた[19][52]
一高入学――伊豆一人旅へ一高受験の頃(1917年)

1917年(大正6年)1月29日に急死した英語の倉崎先生のことを書いた「生徒の肩に柩を載せて」が、国語教師・山脇成吉(のち満井)の紹介により、3月に雑誌『団欒』に掲載され、発行者の石丸悟平(山脇の同級)から、感動したという返事をもらう[52][73][注釈 4]。3月、康成は茨木中学校を卒業した。この学校の卒業者は、ほぼ学校の先生か役場に就職し、末は町村長になる者が多く、少数の成績優秀者は京都の三高に進学していた[75]


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