川端康成
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この頃は川端や元新感覚派の作家にとって不作不振の時期であった[13]

当時は、プロレタリア文学が隆盛で、『文藝時代』の同人であった片岡鉄兵が左傾化した。武田麟太郎藤沢桓夫も、プロレタリア文学運動に加わり、石濱金作が転換、今東光鈴木彦次郎が旧労農党に加入し、横光利一は極度に迷い動揺した[13]。そんな中、川端はマルクス主義に対して従来とほぼ同じ姿勢で、〈僕は「芸術派」の自由主義者なれども、「戦旗」同人の政治意見を正しとし、いまだ嘗て一度もプロレタリア文学を否定したることなし。とは云へ、笑ふべきかな僕の世界観はマルキシズム所か唯物論にすら至らず、心霊科学の霧にさまよふ〉と語っていた[162]宇野千代

1928年(昭和3年)、熱海の家に昨年暮から梶井基次郎が遊びに来て毎日のように囲碁などに興じていたが[163]、正月3日に、真夜中に泥棒に入られた[161]。川端は当初、を開けて夫婦の寝部屋を覗いていた男を、忘れ物を探しに来た梶井だと思っていたという[161]。枕元に来た泥棒は、布団の中の川端の凝視と眼が合うとギョッとして、「駄目ですか」と言って逃げて行った[161]。その言葉は、〈泥棒には実に意味深長の名句なのだらうと、梶井君と二人で笑つた〉と川端は語り[161]、梶井も友人らに「あの名せりふ」を笑い話として話した[164][注釈 20]。3月には、政府の左翼弾圧・共産党の検挙を逃れた林房雄、村山知義が一時身を寄せに来たこともあった[165]。その後、横光利一が来て、彼らの汽車賃を出して3人で帰っていった[135]

3月までの予定だった熱海滞在が長引き、家賃滞納し立退きを要求されたため[注釈 21]、5月から尾崎士郎に誘われて、荏原郡入新井町大字新井宿字子母澤(のち大森区。現・大田区西馬込3丁目)に移ったが、隣りのラジオ屋の騒音がうるさく執筆できないため、その後すぐ同郡馬込町小宿389の臼田坂近辺(現・南馬込3丁目33)に居住した[149]。子母澤にいる時、犬を一匹飼い始め、「黒牡丹」と名付けた(耳のところが黒い牡丹のような模様だったため)[149]馬込文士村には尾崎士郎をはじめ、広津和郎宇野千代子母沢寛萩原朔太郎室生犀星岡田三郎のほか、川端龍子小林古径伊東深水などの画家もいて、彼らと賑やかに交流した。川端は宇野千代と一緒に方々歩いたが、2人を恋人同士と誤解した人もあったという[40]。この年の夏に、妊娠5、6か月だった妻・秀子が風呂の帰りに臼田坂で転倒して流産した[149]
浅草時代――流行作家へ左から君子(妻の妹)、川端、妻・秀子(自宅にて、1930年)

1929年(昭和4年)4月に岡田三郎らの『近代生活』が創刊され、同人に迎えられた。9月17日には浅草公園近くの下谷区上野桜木町44番地(現・台東区上野桜木2丁目20)に転居し、再び学生時代のように浅草界隈を散策した[166]。この頃から何種類もの多くの小鳥を飼い始めた。こうした動物との生活からのちに『禽獣』が生れる。この頃、秀子の家族(妹・君子、母親、弟・喜八郎)とも同居していた。浅草では7月にレビュー劇場・カジノ・フォーリーが旗揚げされていた。川端は、第2次カジノ・フォーリー(10月に再出発)の文芸部員となり、踊子たちと知り合った。踊子たちは「川端さんのお兄さん」と呼んでいたという[167]。10月に「温泉宿」を『改造』に発表。12月からは、「浅草紅団」を『東京朝日新聞』に連載開始し、これにより浅草ブームが起きた[注釈 22]

また、この頃川端は、〈文壇を跳梁する〉左翼文学の嵐の圧力に純文学が凌駕されている風潮に苦言を呈し始め、「政治上の左翼」と「文学上の左翼」とが混同され過ぎているという堀辰雄の言葉(『文學』発刊の趣意。読売新聞紙上)に触発され、〈今日の左翼作家は、文学上では甚だしい右翼〉だと断じ、その〈退歩を久しい間甘んじて堪へ忍んで来た〉が、〈この頃やうやく厭気が〉がさしてきたと述べ、〈われわれはわれわれの仕事、「文学上の左翼」にのみ、目を転じるべき時であらう〉と10月に表明した[169]堀辰雄

同じ10月には、堀辰雄、深田久弥永井龍男、吉村鉄太郎らが創刊した同人誌『文學』に、横光利一犬養健と共に同人となった。『文學』は、季刊誌『詩と詩論』などと共に、ヴァレリージイドジョイスプルーストなど新心理主義の西欧20世紀文学を積極的に紹介した雑誌で、芸術派の作家たちに強い刺激を与え、堀辰雄の『聖家族』、横光利一の『機械』などが生れるのも翌年である[13]

1930年(昭和5年)、前年12月に結成された中村武羅夫尾崎士郎龍膽寺雄らの「十三人倶楽部」の会合に川端は月一度参加し始めた。「十三人倶楽部」は自ら「芸術派の十字軍」と名のり、文芸を政治的強権の下に置こうとするマルキシズム文芸に飽き足らない作家たちの団体であった[13]。新興芸術派の新人との交遊もあり、川端は〈なんとなく楽しい会合だつた〉と語っている[40]。また同年には、菊池寛の文化学院文学部長就任となり、川端も講師として週一回出講し、日大の講師もした。2月頃には、前年暮に泥棒に入られた家から、上野桜木町49番地へ転居した[170]。この頃は次第に昭和恐慌が広がり、社会不安が高まりつつある時代であった[47]。11月には、ジョイスの影響を反映させ、新心理主義「意識の流れ」の手法を取り入れた「針と硝子と霧」を『文學時代』に発表した。

続いて翌1931年(昭和6年)1月と7月に、同手法の「水晶幻想」を『改造』に発表した。時間空間を限定しない多元的な表現が駆使されている「水晶幻想」は、これまで様々な実験を試みてきた川端の一つの到達点ともいえる作品となっている[13]。4月から、書生の緑川貢を置くために、同じ上野桜木町36番地の少し広い家に転居した[170]。10月には、カジノ・フォーリーのスターであった踊子・梅園龍子を引き抜いて、洋舞(バレエ)、英会話音楽を習わせた。梅園を育てるため、この頃から西欧風の舞踊などを多く見て、〈そのつまらなさのゆゑに〉意地になってますます見歩くようになるが[171][172]、そのバレエ鑑賞が、その後の『雪国』の島村の人物設定や、『舞姫』などに投影されることになる[47][173]


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