川端康成
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芥川龍之介遺書に書かれていた〈末期の眼〉という、たえず死を念頭に置くことにより純化・透明化する感覚意識で自然の諸相を捉えて、美を見出そうとする認識方法が、川端の作品の主題の要となっていった時期であった[13]。また、川端は「奇術師」と呼ばれたことについて、〈私は人を化かさうがために、「奇術」を弄んでゐるわけではない。胸の嘆きとか弱く戦つてゐる現れに過ぎぬ。人がなんと名づけようと知つたことではない〉と「末期の眼」で書いた[184]。12月21日には、親しかった池谷信三郎が死去した(33歳没)。この年から川端は、岡本かの子から小説指導を依頼され、どこの雑誌でも歓迎されなかった彼女の原稿に丁寧に目を通して励まし続けた[13]
『雪国』の世界と新人発掘雪国』駒子のモデル・松栄(1934年)

1934年(昭和9年)1月に、「文藝懇話会」が結成されて、島崎藤村徳田秋声正宗白鳥、横光利一が名を連ね、川端も会員となった。しかし会に出席してみると、元警保局長・松本学主宰で作られたもので、〈謙虚に辞退すべきであつた〉とも川端は思うが、〈私はの来るにつれ、の流すに従ひながら、自分も風であり、水であつた〉としている[40]。そういった思いや、菊池寛や横光利一との出会いのエピソードなどを綴った随筆「文学的自叙伝」を5月に『新潮』に発表した。6月には初めて新潟県の越後湯沢(南魚沼郡湯沢町)に旅した。その後も再訪して高半旅館の19歳の芸者・松栄(本名・小高キク)に会った[185]。これをきっかけに、のちに『雪国』となる連作の執筆に取りかかった。最初の越後行きから帰京後、下谷区谷中坂町79番地(現・台東区谷中)に転居した[174]

8月に癩病(ハンセン病)の文学青年・北條民雄(本名:七條晃司)から手紙や原稿を受け取り、以後文通が始まった。この当時、川端の文芸時評で認められることは、「勲章」を貰うようなものであったという[186]。川端は新人の文章に触れることについて以下のように語っている[187]。世間の一部が風評するやうに、私は新進作家の新奇さのみを、褒めたりおだてたりしてゐるのでは、決してない。作家的素質の美しさやみづみづしさに触れる喜びで、自分を洗つてゐるのである。 ? 川端康成「文芸時評 中島直人氏」(昭和9年2月1日)[187]

1935年(昭和10年)1月、「夕景色の鏡」を『文藝春秋』に発表、「白い朝の鏡」を『改造』に発表し、のちに『雪国』となる連作の各誌への断続的掲載が開始された。同月には、芥川賞直木賞が創設され、横光利一と共に芥川賞の銓衡委員となった。第1回芥川賞の川端の選評をめぐり、賞をほしがっていたが外れた太宰治との間で一騒動があった。6月から8月には発熱などで体調を崩し慶応病院に入院した[174]。入院中の7月5日に、内務省地階の共済会歯科技工室でアルコール缶爆破事故の火傷を負った歯科医と女助手が担ぎ込まれ、翌日に亡くなった。このことを題材にして、のちに『イタリアの歌』を執筆する。11月、〈秩父號一〉という筆名を付けて、北條民雄の「間木老人」を『文學界』に紹介した[188]。また、この年に横光利一が『純粋小説論』で、純文学について論じ話題となり、その反響を文芸時評で取り上げ[189]、川端も文学者本来の精神に立ち返ることを主張し、12月に「純文藝雑誌帰還説」を『読売新聞』に発表した。同月5日には、林房雄の誘いで、神奈川県鎌倉郡鎌倉町浄明寺宅間ヶ谷(現・鎌倉市浄明寺2丁目8-15、17、18のいずれか)に転居し、林と隣り同士となった[174][190][191][192]

1936年(昭和11年)1月、『文藝懇話会』が創刊されて同人となった。2月5日に北條民雄が鎌倉を訪れ、初めて面会した[174]。同月には川端の推薦により、「いのちの初夜」と名付けられた北条の作品が『文學界』に掲載され、文壇に衝撃を与えた[13]。川端は、〈文壇や世間の批評を聞くな、読むな、月々の文壇文学など断じて見るな、(中略)常に最高の書に親しめ、それらの書が自ら君を批評してくれる〉と北条を励ました[188]。川端は、佐左木俊郎のように真価を知られること無く死んでゆく無名の作家たちの作品を世に知らせることを、文芸批評家としての一つの使命とし[13][187][193]、〈常に批評家によつて軽んじられ通して来た作家の味方〉であった[194]。そのような川端を、「発掘の名人」と呼んだ横光は[195]、2月20日に、新聞の特派員として船で渡欧し、川端はそれを神戸港で見送った。5月には越後湯沢に5度目の旅をし、『雪国』の執筆を続けた。岡本かの子(1920年頃)

6月には、岡本かの子の「鶴は病みき」を同誌に紹介した。芥川龍之介をモデルにしたこの作品が岡本の文壇デビュー作となった。同月には、川端が学生時代に初めて知り合った作家・南部修太郎が死去した(43歳没)。8月は、『文學界』の広告スポンサーの明治製菓の内田水中亨の斡旋で、神津牧場見物記を明治製菓の雑誌『スヰート』に書くこととなり、初めて長野県北佐久郡軽井沢町を訪れ、藤屋旅館に滞在した[196]信州への関心が高まり、その後その地を背景とした作品が書かれる。12月からは、盲目の少女を描いた「女性開眼」を『報知新聞』に連載開始し、「夕映少女」を『333』に発表した。

1937年(昭和12年)5月に鎌倉市二階堂325に転居した(家主は詩人蒲原有明)。6月に書き下ろし部を加えて連作をまとめ『雪国』を創元社より刊行し、第3回文芸懇話会賞を受賞した(執筆はこの後も断続的継続される)。この賞金で川端は旧軽井沢1307番地の別荘を購入した(翌年、隣地1305番地の土地も購入)。同月には、信州を舞台に戦争の時代を描いた「牧歌」を『婦人公論』に連載開始し、「乙女の港」を『少女の友』に連載開始した。「乙女の港」は、川端に師事していた新人主婦作家の佐藤恒子(中里恒子)を執筆指導しながら合作した作品である。この年の7月に支那事変が起き日中戦争が始まった。11月からは別荘に滞在し、戸隠などに行き、出征する兵士を見送る婦人の描写も含む「高原」を『文藝春秋』に断続的に発表を開始する[197]堀辰雄(右)と軽井沢にて(1943年)

同月18日、この軽井沢の別荘を堀辰雄郵便局に行った帰りに遊びに寄っている間に、堀の滞在宿の油屋旅館が火事になったため、堀は川端が帰った12月以後そこを借りて、『風立ちぬ』の最終章「死のかげの谷」が書き上げられた[174][198][199]。12月5日に北條民雄が死去し(23歳没)、東京府北多摩郡東村山村にあるハンセン病療養施設「全生園」に赴き、北条の遺骸と面会した。のちにこの北条の死を題材にした作品『寒風』が書かれる。また、この年の10月28日には、耕治人から是非読んでもらいたいと原稿が送られてきて、翌年から度々訪問してくるようになる[174][注釈 25]


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