川端康成
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^ 川端は親戚の川端松太郎に、10月31日付で修善寺温泉、11月2日付で湯ヶ野温泉など旅先から絵葉書を送っている[19][50][81][82]
^ 川端は、中学の入学試験の体格検査や、病院で右眼の視力がよくないことに驚いていたが[86]、眼底に結核の病痕があることを40歳頃に医者から教えられた[26][33]
^ その後も川端は、今東光の家に度々招かれて、霊談義を聞くことがあったようで、〈テレパシイの話〉〈霊知学の話〉を、〈面白き話と思ふ〉と日記に記している[91]
^ この『ちよ』に関連する作品『処女作の祟り』では、処女作『ちよ』を書いたために、登場人物の故郷の村の男〈千代松〉が祟られ、〈ちよ〉という名前の女性に〈僕〉が失恋する話が描かれている[95]。この〈千代松〉の怪談挿話は架空であると川端は言っているが、実在人物かは明確ではない[19]
^ 平出修の妻の甥・平出実の元妻であったマダム・山田ます(1887年生まれ)は、帝大生の福田澄夫と男女関係となり、福田が台湾銀行に入社するのに同行して行った[18][99]
^ 伊藤初代の父親・伊藤忠吉は農家の長男だが、土地の風習で長子の姉が婿養子を迎えて家を継ぎ、忠吉は同村のS家に婿入りして二児を儲けたが離婚し、職を求めて福島県若松市(現・会津若松市)へ行った。そこで大塚サイと知り合い初代を儲け、再婚して学校守り(用務員)となり二女・マキを儲けた[100]。初代は、1906年(明治39年)9月16日に福島県若松市川原町25番地で出生。母・サイが1914年(大正3年)に死去すると、翌1915年(大正4年)春、9歳で叔母(母の妹)に預けられた。3歳の妹・マキの方は父・忠吉に連れられ郷里の岩手県江刺郡岩谷堂に行き、忠吉はその地で小学校の用務員となる[101]。叔母の家の初代は、小学校も中退させられて上京し(祖父の大塚家が上京したため)、子守として奉公に出されて他家を転々とした後、カフェ・エランのマダムの山田ますが身許引受人となって、そこで働き出した[97][98][100]
^ 1920年(大正9年)までは大学、高校とも、学年度は9月11日に始まり、7月10日に終わった[103]
^ 鈴木彦次郎によると、同人誌を企画し、皆で「湯島サロン」という店で話し合っているところへ、菊池寛芥川龍之介らが偶然やって来て、その場で菊池から『新思潮』を譲ってもらったとされ、翌日に菊池宅を訪問したとされている[80]
^ 初代に惚れ込んだヤクザな常連客が、自分の女に横恋慕する奴だと川端を名指し、撲るとか斬ると言っていたのを知った今東光は、相棒の宮坂普九と一緒に、「其奴を殴り倒し二度と川端に対して手を出せないように仕様と、実は短刀まで用意した」と語っている[96]
^ 石濱金作が1923年(大正12年)10月に、カフェ・エランの前の煙草屋の主婦から聞き出した情報では、伊藤初代は、岐阜県稲葉郡加納町にいた時に、ある者に犯されて自暴自棄になって家出してしまったとされる[18][57]。この人物が誰なのかは、伏字のない川端の日記によると、〈西方寺にて僧に犯されたり〉となっている[117]。2014年(平成26年)に、この強姦事件が事実であったことが、伊藤初代の息子の桜井靖郎により確認されている[118]。桜井靖郎は姉の珠代から、この母の秘密の事実を聞いていたという[118]
^ 伊藤初代との体験を元にした作品には、『南方の火』『篝火』『非常』『霰』『彼女の盛装』『新晴』『日向』『咲競ふ花』『生命保険』『弱き器』『火に行く彼女』『鋸と出産』『写真』『青い海黒い海』『丙午の娘讃』『明日の約束』『伊豆の帰り』『合掌』『大黒像と駕籠』『犠牲の花嫁』『父』『五月の幻』『入京日記』『処女作の祟り』『遥か昔』『西国紀行』『母国語の祈祷』『真夏の盛装』『二重の失恋』『空の片仮名』『水仙』『父母への手紙』『抒情歌』『雨傘』『見知らぬ姉』『父の十年』『浅草に十日ゐた女』『化粧と口笛』『姉の和解』『母の初恋』『再婚者』『日も月も』『離合』『美しさと哀しみと』『水郷』『途中下車』『時代の祝福』がある[9][19][20][70][115][120][121]
^ 大正文壇の寵児であった32歳の芥川は震災発生後間もなく、『文藝春秋』1923年(大正12年)11月号に「或自警団員の言葉」を発表した。川端俊英によれば、「或自警団員の言葉」は震災時の朝鮮人虐殺甘粕事件についての皮肉的な批判が含まれているとされる[128]。新人であった25歳の川端が6年後の1929年(昭和4年)に連載を開始し一時代を築くことになる実験的挑戦作「浅草紅団」において引用している添田唖蝉坊は、震災における後藤新平内務大臣の「この際」主義を風刺した「コノサイソング」(元は息子知道作詞「復興節」)等の震災に関する風刺演歌を作り歌った社会主義者演歌師であり、また「コノサイソング」は甘粕大尉風刺の替え歌となって震災当時の庶民の間で歌われた[129]。川端は、芥川の自殺に関して震災時の出来事を〈二三年の後いよいよ自殺の決意を固められた時に、死の姿の一つとして、あの吉原の池に累々と重なつた醜い死骸は必ず故人の頭に甦つて来たにちがひないと思ふ〉と『サンデー毎日』第8年3号(1929年1月13日)で語った[127][130]
^ 『文藝時代』の同人は、伊藤貴麿石濱金作、川端康成、加宮貴一片岡鉄兵横光利一中河与一今東光佐佐木茂索佐々木味津三十一谷義三郎菅忠雄諏訪三郎鈴木彦次郎岸田国士、南幸夫、酒井真人、三宅幾三郎稲垣足穂であった[12][138]。川端は、牧野信一も同人に加えたかったが、菅忠雄などが反対ぎみの意向を示している[139][140]。『文藝時代』の創刊翌月、『文藝春秋』11月号に載った「文壇諸家価値調査表」(直木三十三が作った文士採点表)をめぐって憤慨した今東光が[141][142]、翌1925年(大正14年)4月に脱退し[138]、その後『文党』に行った[92][143][144]
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