川北紘一
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「金粉」のきらめきを画面効果として好み[37][43]、『ゴジラvsビオランテ』や『ゴジラvsデストロイア』などで、ゴジラや怪獣が消滅するといった描写で多用している[注釈 7]。東宝プロデューサーの富山省吾は、『vsデストロイア』でのゴジラが死ぬシーンは、これら川北のテクニックをすべて投入していたと評している[46]

「怪獣はプロレスごっこのような肉弾戦をしないだろう」という考えから、怪獣同士が取っ組み合うような格闘演出を排除し、目や口、触覚などからの光線技の応酬を多用する[出典 15]ため、「川北特撮=光線の打ち合い」などと揶揄する声もある[49]。擬人化した動きは意図的に排除している[出典 16][注釈 8]。円谷英二の意向に則り流血表現は避けつつ、上記金粉やビオランテでの樹液など代替表現を行うことも多い[出典 17]。怪獣が建物を破壊する場面でも、手で壊すような描写は好まないという[25]。こうした効果について、川北は放射能などの目に見えないものを表現するのにわかりやすいとしており、残虐な描写を用いないことで観客に想像の余地を残していると述べている[10]

一方、ゴジラとベビーゴジラ(リトルゴジラ、ゴジラジュニア)の親子愛や、モスラとバトラやゴジラとラドンの命のやり取りなど、擬人化せずとも描ける生物共通の愛情や命のあり方を描くことも重視している[11]

今までとは違うゴジラを描こうという姿勢から、『vsビオランテ』以降のゴジラの歯を2列にしたり、白目を無くしたり、透明素材の背びれにフラッシュを仕込んで光らせたりと、さまざまな新案を持ち込んでいる。従来のゴジラの人間臭さを排して動物的な原点に戻すことを意図した一方、単なるリアル志向にはならず、ファンタジー要素も重視したことも語っている[11]

怪獣は夜間に禍々しく動くものという考えから、ゴジラシリーズではナイトシーンをクライマックスとしている[10][注釈 9]。一方、モスラシリーズはイメージが異なると述べている[10]。『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)は監督の大森一樹からの要望で昼間の戦闘が中心となった[52][6]

撮影では、NGが出たカットでは次にまったく異なるアングルで撮影するなど、映像素材を多く得ることを重視していた[53]。これに対応するため、ミニチュアセットも固定されたものではなく、移動や組み換えが可能なものとなっていた[53]。川北は、一見使いようがないカットでも編集や合成で味付けを行うことで観客に美しく見せることが必要だと考えており、自身でも思いがけない効果をあげることもあるという[54]。業界内では「ねばりの川北」とも称されていた[1][55]

照明技師の斉藤薫は、円谷英二がカメラポジションを据えたら横移動かクレーンでの上下移動のみであったのに対し、川北はカメラ自体が迫っていく縦移動が多かったといい、カメラマンの江口憲一も川北は主観カットが多いと述べている[44]。カメラを複数台で撮ることも多く、カメラ同士が向かい合うようなポジションになるため、Bカメラは頭に草をつけたりビルの中に入るなどしていた[44]

「あるものは何でも使えばいい」と雑誌『宇宙船』のインタビューで発言しており[要文献特定詳細情報]、『ゴジラvsメカゴジラ』(1993年)の第2特報では『ガンヘッド』(1989年)の特撮シーンを流用したほか、『超星神グランセイザー』(2003年)では東宝の倉庫に保管されていたゴラス、「ゴジラシリーズ」などの小道具を流用した。また、『幻星神ジャスティライザー』(2004年)でもメカゴジラの模型を流用した。それらに先駆け、『さよならジュピター』(1984年)ではオガワモデリングが所有していた緻密なミニチュアを正式に譲ってもらっており、前述の「超星神シリーズ」の宇宙戦のシーンに流用している。助監督を務めた神谷誠は、使えるものは何でも使うことで、予算以上の効果を目指していたと述べている[43]

編集でも、過去の映像素材を効果的に挿入することも得意としている[56]。神谷によれば、川北はフィルム倉庫のストック・フッテージを把握していたといい、その倉庫は「川北ライブラリー」と称されていた[56]

現場での撮影を第1の演出とするならば、編集は第2の演出であり、おろそかにすることができない一番大事な作業であると語っている[54]。編集時点では、特撮カットに音がついていないため、編集にあたっては音を感じられるよう画作りを意識していた[54]。また、説明的な引きのカットは尺を短くし、寄りのカットでは尺を長くして周囲を映さずに芝居を見せることで感情を表現している[54]。リアルに見せることよりもリアルに感じさせることが重要であり、照明などの整合性は気にせず、画面の流れや迫力を優先している[54]

特撮美術の大澤哲三は、川北は円谷英二時代の伝統的な特撮技法を大事にしており、技術的に新しい技法が使える場面でもあえて古い手法を用いることもあり、先駆者への畏敬の念の現れであると同時にそこへ自身の新しい要素を加えていくという意志を感じたことを語っている[53]。川北自身も、合成技術ではハリウッドに敵わなくても、ミニチュアワークでは勝っていると自負していた[57]

川北組で助監督を務めた鈴木健二は、川北の編集は割り切りがいいと評しており、複数台で撮影したカットの場合はメインポジションではなく寄りの画を使うこともあった一方、絵コンテについてはスケジュールの都合から取り切れず、削ることも多かったという[29]。大澤も、メインポジションが1回で終わることもあるためセット作りが難しかったと述べている[44]

同じく助監督を務めた神谷は、川北の性質を「やんちゃ」と評しており、彼のやんちゃさは役員職に就く前の『vsビオランテ』のころがピークであったという[56]。川北は、脚本にないことをその場のひらめきで言い出すことも多かったが、神谷はその状況に大変さよりも面白さを感じていたと述懐している[56]。助監督の近藤孔明は、アドリブで特撮を撮る監督は川北以外にはいないと評している[42]スタジオOXの杉田篤彦によれば、川北は雑談の中からアイデアを拾うこともあったといい、若手の意見でもすぐに現場に導入する行動力であったと証言している[58]。一方、本編監督の大河原孝夫は、先行していた川北の撮影内容が事前の打ち合わせと異なるものであったため、本編とつながらないこともあったと証言している[59]

準備期間の都合から、脚本の決定稿が完成する前に特撮の準備・撮影に入ることが多く、東宝プロデューサーの富山省吾は、平成ゴジラVSシリーズでは本編班と川北のアイデアをすり合わせることが製作として重要な作業であったと述べている[60]

造型担当の若狭新一は、平成ゴジラVSシリーズは川北がやりたいことをやりたいようにやった作品だと評しており、彼の情熱があったからこそ現場の士気も上がり、観客にもその情熱が伝わったことが作品の人気にもつながったと語っている[61]

怪獣やメカなどのデザインは、デザイナーによる画稿の通りに造るのではなく、複数のデザイン案をまとめて造形で最終的なデザインを決定するという手法をとっていた[62]。ゴジラシリーズなどにデザイナーとして参加した西川伸司は、川北について同年代では珍しいマニア気質の人物だが原理主義者ではなく、過去のキャラクターを登場させる時は懐古趣味にならず、その時代の子供たちに受け入れられるよう、必ずリニューアルしていたと証言している[63]。一方、川北の監督時代は彼がすべてを取り仕切っていたため、デザインや造形も川北の意向に沿ったものとなっており、彼が退任した『モスラ3 キングギドラ来襲』(1998年)以降はデザイナーや造形家の独自色が出ていると述べている[63]


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