1963年(昭和38年)、手薄となった光学撮影部門に移動、光線作画などに従事[19][5][注釈 2]。以後、光学合成を主に担当する。
1965年(昭和40年)、円谷特技プロダクションのテレビ映画『ウルトラQ』第12話「鳥を見た」で合成を手掛け、これがテレビ番組での初仕事となる。
1966年(昭和41年)、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』で撮影助手を担当[20]。
1971年(昭和46年)、円谷死去後の新体制で、東宝内に新設された「映像企画室」に異動。同年に一班体制で制作された『ゴジラ対ヘドラ』では、監督の坂野義光のもとで演出助手を務め[出典 7]、合成シーンなどを演出[29][注釈 3]。
1972年(昭和47年)、『ウルトラマンA』に特撮班助監督で参加、第21話でテレビ特技監督デビュー[出典 8]。同作では数本を担当したが、撮影を一生懸命やった結果、決められた合成カット数を超えたり、5日で撮るところを1週間や10日かけるなどし、外部からは評判が良かったが社内では1番良くなかったと述べている[29]。
1973年(昭和48年)、テレビ番組『流星人間ゾーン』で特撮監督。第4話「来襲! ガロガ大軍団 ―ゴジラ登場―」で、テレビ作品ながらゴジラを初めて演出する[18]。
1976年(昭和51年)、『大空のサムライ』で映画特撮監督デビュー[出典 9]。零戦のミニチュア撮影に、難色を示す会社を押し切ってラジコンを使用し、一定の効果を挙げる[30][注釈 4]。
1989年(平成元年)[注釈 5]、中野昭慶の後を継ぎ、『ゴジラvsビオランテ』で特技監督(特撮監督)を担当、以後のゴジラシリーズ6作を担当する[出典 10]。川北が退いた後の『モスラ3 キングギドラ来襲』(1998年)から『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)では特技監督の役職が設けられなかったため、「東宝最後の特技監督」とも称され、自著のキャッチコピーにも用いている[33][注釈 6]。
2002年(平成14年)、東宝を定年退社。
2003年(平成15年)1月、特撮・VFXの制作会社、株式会社ドリーム・プラネット・ジャパンを設立[出典 11]。
2013年(平成25年)、大森一樹の招きで大阪芸術大学映像学科の客員教授に就任[7]。
2014年(平成26年)12月5日、肝不全で死去[15]。72歳没。生没同日であった。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}2014年8月26日に放送された『SOUL SAPIENS with Ryohei Ebuchi Vol.3』(インターネットテレビ)にゲスト出演し、これが最後の映像出演となった。[要出典]また、同年11月から12月にかけて大森一樹や大阪芸術大学映像学科と共に制作した『装甲巨人ガンボット』がテレビ大阪で放送され[34]、これが遺作となった[7]。
2015年(平成27年)2月7日、東宝スタジオ第6ステージにて「川北紘一監督お別れの会」が催された[35]。発起人は東宝社長の島谷能成とバンダイ社長の上野和典が務めた[35]。 子供のころから、近所の東映の映画館で番落ちの白黒時代劇映画に親しんだ[出典 12]。親戚に映画関係者が多く[20][26]、封切りの東宝映画はチケットを回してもらって観ていたという[22][20]。
人物