川上源一
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1912年1月30日 静岡県浜名郡豊西村[注 1]で、日本楽器製造社長を務めた川上嘉市の長男として生まれる。

幼少時から兵庫県西宮市、小学校4年からは芦屋市[4]で育つ。

1929年2月 旧制甲南高等学校2年時、社会主義運動を行い同校を中退[4]する。

1934年 高千穂高等商業学校卒業後、大日本人造肥料へ入社する。

1937年7月 父嘉市が社長を務める日本楽器製造へ入社する。

1946年7月 取締役に就任する。

1950年 嘉市のあとを受けて4代目社長に就任して製造ラインの合理化に努め、ピアノ生産量を世界一にする。

1954年 オートバイ事業に進出する。

1955年 ヤマハ発動機を設立[注 2]して社長を兼務する。

1959年 日本で初めて電子オルガンを開発し、商品名「エレクトーン」は電子オルガンの代名詞ともいわれる。

1964年 父の嘉市が死去する。

1966年 ヤマハ音楽振興会を設立し理事長に就任[注 3]する。

1977年 日本楽器製造の社長を退くも経営方針を巡り後継の河島博社長と対立する。

1980年 河島を解任して再び第6代社長に就く。

1981年 定款を改正して長男の川上浩が副社長に就任する。

1983年 川上浩が社長に就任する。社長退任後も会長や相談役などとしてグループの経営に参画する。

1992年2月 川上浩社長の辞任を機に源一も相談役を退いて最高顧問[注 4]に就く。

2002年5月25日午後5時32分 老衰のため静岡県浜松市の病院で死去する。

語録

この会社(ヤマハ)を、社員が誇れる会社にしたい。 (社長就任時の挨拶より)

著書

書名出版社出版年月日ISBN備考
実用ポピュラー音楽編曲法
ヤマハ音楽振興会1974年編纂
音楽普及の思想ヤマハ音楽振興会1977年8月
私の履歴書―狼子虚に吠ゆ日本経済新聞社1979年2月初めての自伝
子どもに学ぶ―親と教師のためにヤマハ音楽振興会1981年4月
エピキュリアン料理文藝春秋1985年9月ISBN 978-4163400600
新・音楽普及の思想ヤマハ音楽振興会1976年1月ISBN 978-4636208368

関連評伝

加藤仁『社長の椅子が泣いている』(講談社、2006年)
ISBN 978-4062115735

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 現在の浜松市中央区恒武町にあたる。
^ 1982年には二輪車市場をホンダと競い2万円台バイクを登場させて「HY戦争」と呼ばれる。
^ 1995年から名誉会長
^ 40年以上君臨した経営の第一線から事実上退き、以後はヤマハグループの表舞台に現れず経営にも一切関与せずに晩年を入院で過ごしている。

出典^ “大バッシング ギター1本の「時代」に秘めた思い”. 歌っていいな. 日刊スポーツ (2021年1月10日). 2021年11月19日閲覧。
^ “ ⇒中島みゆき「時代」A?ヤマハ音楽振興会の創始者だった恩人に捧げる言葉「DAD 川上源一”. TAP the POP (2016年12月9日). 2021年11月19日閲覧。
^ 『日経産業新聞』1990年7月4日付
^ a b 川上源一『私の履歴書―狼子虚に吠ゆ』(1979年)日本経済新聞社、p21-37

外部リンク

大前研一講演:泥沼を這い上がったストリートスマートから学ぶ「経営者の勘所」 - U-NOTE

戦後日本のイノベーション100選 高度経済成長期 ヤマハ音楽教室 - 戦後日本のイノベーション100選事務局

2012年 日本自動車殿堂者 川上源一 - JAHFA










ヤマハ社長

山葉寅楠1897-1916

天野千代丸1916-1927

川上嘉市1927-1950

川上源一1950-1977

河島博1977-1980

川上源一1980-1983

川上浩1983-1992

上島清介1992-1997

石村和清1997-2000

伊藤修二2000-2007

梅村充2007-2013

中田卓也2013-


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