川上景司
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円谷に演出家として招かれ、「一番弟子」である川上は松竹を退社し[注釈 2]、同プロ創設と同時に入社[1][4]。円谷特技プロは間もなく日活石原プロモーション製作の映画『太平洋ひとりぼっち』(市川崑監督)の特撮部分を受注。「特殊技術」名義で特撮を担当する[4]

同年、東宝で特撮映画『海底軍艦』(本多猪四郎監督)が企画されるが、急遽正月興行が決まり、特撮部分の撮影期間が1か月に満たない非常事態となった。困り切った円谷英二は、助監督の中野昭慶からの進言で3班体制を採ることにし、川上を東宝に呼んでB班監督を任せた[注釈 3]

1964年(昭和39年)、円谷特技プロがテレビ特撮映画『ウルトラQ』(TBS)の製作を開始。川上は特技監督として計11本に参加[4]。また、『ウルトラQ』撮影風景のスナップにも川上の姿が多く存在している。

1965年(昭和40年)、東宝傘下の円谷特技プロの現状に不満を覚え、制作上の意見の相違もあり、「自由な映画作りがしたい」として同プロを退社[4]
日本特撮映画株式会社の設立

1966年(昭和41年)、東宝特技課を退社した渡辺明、小田切幸雄らとともに「日本特撮プロダクション」(のち「日本特撮映画株式会社」に改名)を設立[6][注釈 4]。完全独立プロダクションとして映画などの特撮部分を請け負う。

1967年(昭和42年)、『ウルトラQ』放映開始によって日本列島は「怪獣ブーム」に包まれる。各社が怪獣映画の制作に乗り出すなか、松竹の『宇宙大怪獣ギララ』(二本松嘉瑞監督)の特撮監修を担当。怪獣ブームを過熱させた。(日活の『大巨獣ガッパ』(野口晴康監督)は渡辺明が担当)

1968年(昭和43年)、松竹で『吸血髑髏船』(松野宏軌監督)、『昆虫大戦争』(二本松嘉瑞監督)の二本立て作品両方の特撮を担当[注釈 5]

1969年(昭和44年)、日本特撮映画株式会社を解散。

1973年(昭和48年)、癌により死去。享年61。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 円谷はこの作品の後、『ゴジラ』(本多猪四郎監督)を手掛けている。
^ 佐川和夫は「川上さんは丁度松竹を定年退職になってた」と述べている[5]
^ A班(セット)は円谷監督、川上のB班は合成ほか、C班(ロケ)は中野昭慶が担当した。
^ フジテレビの特撮番組『怪獣王子』を製作した京都の特撮プロダクション「日本特撮株式会社」(日本特撮K.K)とは無関係である。
^ クレジットは「協力」。東映の『ガンマー第3号 宇宙大作戦』〈深作欣二田口勝彦共同監督〉は渡辺が担当。

出典^ a b c d e f g h 東宝ゴジラ会 2010, pp. 263?270, 「第三章 スペシャルインタビュー INTERVIEW18 矢島信夫」
^ a b 東宝特撮映画全史 1983, p. 83, 「東宝特撮映画作品史 前史」
^ 円谷英二特撮世界 2001, p. 17, 「初期作品紹介 1937-42年」
^ a b c d e f g h i j k マガジン2020 2020, p. 63, 「ウルトラ雑学2 円谷プロダクション Who's Who?」
^ 小野浩一郎(エープロダクション) 編「SPECIAL TALK PART2(特技監督座談会 円谷特撮の魂)」『テレビマガジン特別編集 新・ウルトラマン大全集』講談社、1994年10月1日、196頁。


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