川上憲伸
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チームのリーグ優勝で迎えた日本シリーズでは、チーム唯一の勝ち星を挙げたことから、敢闘賞を受賞。

2000年シーズンには急性感音性難聴を患った。春のキャンプ中、急に耳が聞こえなくなり検査したところ、手術が必要との診断で、沖縄で緊急手術を行った[16]。その影響もあって、シーズンを通じて不調。一軍公式戦では2勝3敗に終わった。

2001年シーズンには一軍公式戦で6勝しか挙げられず、プロ入り初の2桁敗戦を喫する。秋季キャンプの時期に、肩の検査のためアメリカの病院へ行き、手術ではなく筋肉トレーニングで改善することとなった[17]。リハビリ中にマリアノ・リベラ選手のカットボールを見たことで「あのボールは日本に無いし、投げられるようにならないかな」と思い、日本に戻ってからトレーニングしたことで川上のカットボールが生まれた[18]

1999年から2001年までの3年間は、成績と体調がだんだんと下がっていって、フィジカルの不調で思い切った試合ができていなかった。人生の中でも、この苦しい時期を耐えたからこそ、その後の活躍があった、と川上は振り返っている[19]

2002年シーズンには一軍の開幕投手候補に挙げられていた[20]。しかし、靴ずれによって左足小指を痛めた[20]ため、二軍(ウエスタン・リーグ)の開幕投手に回った[21]。開幕5戦目となる4月4日の巨人戦(ナゴヤドーム)でシーズン初登板[22]。8月1日の対巨人20回戦(東京ドーム)では、4回に先頭打者の清水隆行に四球を与えた以外、走者を出さず、NPB史上70人目(81度目)のノーヒットノーラン(無安打無得点試合)を達成[1]。これが21世紀初のノーヒットノーランになり、チームの対巨人戦の連敗も9で止めた[23]。24イニング連続無失点を記録する[24]など、シーズン終盤まで最優秀防御率のタイトルを狙える位置にいた[25]が、10月10日の阪神戦(甲子園)では5回2/3を4失点(自責3)でタイトル獲得を逃した[26]。それでも9月10日の巨人戦(ナゴヤドーム)でルーキーイヤー以来4年ぶりに2桁勝利を達成した[27]ほか、防御率2.35は桑田真澄に次ぐリーグ2位だった[28]

2003年シーズンは開幕投手を務め、相手投手の上原浩治に投げ勝った[29]。4月に4勝を挙げ[30]月間MVPに選ばれた[31]。しかし、5月13日のヤクルト戦(富山アルペンスタジアム)では、相手投手の石川雅規に2打席連続適時打を打たれるなど5回0/3を6失点でKOされた[30]。この試合後に右肩関節唇の損傷で戦線離脱。その直後に左太ももの肉離れを起こし、残りのシーズンを棒に振ってしまった[32]。最終的にわずか8試合で4勝に留まった。10月13日のよさこいリーグ・広島戦(高知)で実戦復帰[33]

2004年シーズンは開幕投手最有力だったが、この年監督に就任した落合博満川崎憲次郎を起用した[34]ため、開幕3戦目となる4月4日の広島戦(ナゴヤドーム)でシーズン初登板[35]。延長11回157球の熱投を見せ、11回裏に立浪和義がサヨナラ打を放ったため、346日ぶりの白星を手にした[35]。5月15日の横浜戦(ナゴヤドーム)では、7回裏二死二塁で迎えた打席で2点本塁打を放って両チーム唯一の打点を挙げると、2対0で完封勝利を挙げ、落合博満監督に「昔の大エースの野球だよ」と言わしめた[36]。このシーズンはチームの5年ぶりのリーグ優勝に貢献するとともに、リーグ最優秀選手沢村賞最多勝など合計9つのタイトルを獲得。西武ライオンズとの日本シリーズでは、初戦と第5戦に先発。初戦では7回2失点と好投したが[37]打線が西武先発の石井貴の前に2安打に抑えられ[38]敗戦投手になった[37]。チームの2勝2敗で迎えた第5戦では8回1失点の好投で今度は勝利投手となった[39]が、チームは第6戦と第7戦に連敗したため日本一を逃した。オフの12月27日に1億2500万円アップの年俸2億3000万円で契約更改[40]

2005年シーズンは自身2年ぶりの開幕投手を務め、9回無失点に抑えた[41]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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