はやくから能書家として知られ、日下部鳴鶴、中林梧竹と並ぶ明治の三筆の一人と称される。初め中沢雪城に師事して菱湖流を学んだが、明治政府出仕後は旧習を脱して、顔真卿の書を基盤とした雄渾な書風へと転じている。さらに1880年(明治13年)に来日した楊守敬から六朝書法を学び独自の書風を確立する。各体をよくし、特に行草書は瀟洒な風をなしている。とくに閑職となってからは各地に旅行し多数の揮毫作品が伝わる。また日下部鳴鶴と同様数多くの石碑の文字を書いており、現在も全国に250基以上の碑が残っている[5]。
また、甲賀市水口歴史民俗資料館(甲賀市水口町水口)に「巖谷一六・小波記念室」があり、近年明治4年から12年にかけての自筆日記や、没後編纂された『一六遺稿』未収録の漢詩文稿が収蔵され、それぞれ翻刻公刊された。
栄典
位階
1874年(明治7年)2月18日 - 従五位[6]
1886年(明治19年)11月16日 - 正五位[7]
1894年(明治27年)5月21日 - 正四位[8]
1905年(明治38年)7月12日 - 従三位[9]
勲章等
1887年(明治20年)11月25日 - 勲四等旭日小綬章[10]
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[11]
1890年(明治23年)6月30日 - 勲三等瑞宝章[12]
1905年(明治38年)7月12日 - 勲二等瑞宝章[9]
師弟関係詳細は「日本の漢字書家一覧」を参照
中沢雪城
巖谷一六
辻香塢
明治時代初期の役所の公休日は、「一」と「六」の付く日で、その日は筆を持つ日と決めて、「一六」という号をつけたと言い伝えられている。
家族
父・玄通:近江国野洲郡永原村医師村田宗徳三男。水口藩藩医。
母・利子:鷹司家諸大夫青木吉利次女。玄通死去後京都に移り、のち新待賢門院祐筆、薙髪し瑞松院と号する。
子
立太郎:長男、鉱山学者、東京大学理学部教授。工学博士。
弁二郎:次男、日下部鳴鶴の養子となる。東京市土木局技師長。第13代土木学会会長。工学博士。
幽香:次女、冨森篤(関西鉄道常務)と結婚。のち水口基督教会初代宣教師、さらに同志社女学校舎監となる。
季雄:三男(筆名・小波)。 児童文学者。
春生:四男、一六の家を嗣ぐ。号・獨嘯、『一六遺稿』乾坤 を刊行。
脚注[脚注の使い方]^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
^ 『官報』第2340号、明治24年4月22日。
^ 『官報』第2335号、明治24年4月16日。
^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)5頁
^ 林淳
その他の役職
先代
(新設)書道奨励協会会頭
1900年 - 1905年次代
金井之恭
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